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坂東三十三観音二十五番札所(筑波山大御堂)「大御堂観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音二十五番札所(筑波山大御堂)「大御堂観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の二十五番札所は筑波山大御堂(おおみどう)、茨城県つくば市にある真言宗豊山派の寺である。寺伝によれば、延暦元年(782年)に徳一法師による開山と古筑波山寺の創建があり、筑波山二峰の男体・女体の神はそれぞれ千手観音・十一面観音を本地仏とする大権現として祀られるようになった。弘仁年間(810年〜824年)には空海(弘法大師)の入山により知足院中禅寺と号したという。筑波山の二神を祀る筑波神社に中禅寺大御堂の本堂はあり、千手観世音菩薩に神を合祀していた。神仏習合による信仰である。

江戸時代には幕府の鬼門の祈願所として庇護を受けたが、明治初年の廃仏毀釈によって堂塔は破壊され、中禅寺の機能は停止した。

その後、昭和5年(1930年)になり、筑波山神社の南西に大御堂が再興された。

昭和36年(1961年)完成のお堂。               (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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御朱印
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詠歌「大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

筑波山大御堂付近地図


筑波山近辺には二十四番、二十五番、二十六番の札所があるが、交通は不便なところなので、車にて巡礼。

(2015年2月下旬 撮影機材 Nikon D5100)

参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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坂東三十三観音二十六番札所(南明山清瀧寺)「清瀧観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音二十六番札所(南明山清瀧寺)「清瀧観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の二十六番札所は南明山清瀧寺、茨城県土浦市にある「清瀧観音」である。この寺の草創は推古天皇15年(607年)勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したことにあるという。開基は僧行基、山の南の清明なる滝口に寺を建てたのが始まりとされる。大同年間(806年〜810年)に徳一上人により山の中腹に移され、後に現在の地に観音堂が建てられた。

参道入口と山門(仁王門)。
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山門は天保年間(1830年〜1844年)の建立と云われている。

昭和44年(1969年)、不審火により本堂(観音堂)が焼失、残念ながら本尊も焼失した。

昭和52年(1977年)に再建された本堂(観音堂)。       (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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聖徳太子御作の本尊は焼失したので、昭和54年開眼の聖観世音菩薩が本尊として祀られている。

御朱印
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詠歌「わが心 今より後は にごらじな 清瀧寺へ 詣る身なれば」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

清瀧寺付近地図


筑波山近辺には二十四番、二十五番、二十六番の札所があるが、交通は不便なところなので、車にて巡礼。

(2015年2月下旬 撮影機材 Nikon D5100)

参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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坂東三十三観音二番札所(海雲山岩殿寺)「岩殿観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音二番札所(海雲山岩殿寺)「岩殿観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の二番札所は海雲山岩殿寺、神奈川県逗子市にある「岩殿観音」である。寺伝によれば養老5年(721年)大和長谷寺の開山徳道上人が、ここで熊野権現の化身たる老爺に逢って霊地たるを知り、その数年後に僧行基が訪れて十一面観音の石像を安置したのが開創と云う。

源頼朝がこの御本尊を信仰、治承4年(1180年)石橋山の敗戦で房州に逃れる折、観世音が船頭となったと云う話があり、頼朝は生涯守り本尊としていたらしい。

岩殿寺山門。
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参道は石段を登って行く。                   (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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御朱印
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詠歌「たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

坂東三十三観音巡りに「岩殿観音」は二つある。この二番札所の岩殿寺と十番札所の埼玉県東松山市にある正法寺である。

岩殿寺付近地図


鎌倉近辺には一番札所から四番札所まである。発願の一番札所は別として、二番札所から四番札所は車にて巡礼した。

(2015年3月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)

参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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坂東三十三観音三番札所(祇園山安養院田代寺)「田代観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音三番札所(祇園山安養院田代寺)「田代観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の三番札所は祇園山安養院田代寺、神奈川県鎌倉市にある「田代観音」である。寺伝によれば源頼朝の家臣田代信綱が深く観世音を信仰し、戦場で危難を逃れて幾たびの武勲を立てた報恩に、建久3年(1192年)に尊乗上人を開山として白花山田代寺を創建した。一方、嘉禄元年(1225年)北条政子が頼朝の菩提を弔うため、祇園山長楽寺を建立した。政子もここに祀られたが、元弘3年(1333年)兵火によって焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。安養院は政子の法名である。この安養院長楽寺も延宝8年(1680年)に火災に会ったため、田代寺を移して統合され、祇園山安養院田代寺として復興した。本尊は千手観世音菩薩で田代寺にあったものである。

「田代観音坂東三番」の石柱、宝永2年(1705年)江戸浜松町の山田喜右衛門という方が奉納。
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観音堂は昭和3年(1928年)の建立。
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御朱印
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詠歌「枯樹にも 花咲く誓い 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

田代寺付近地図


鎌倉近辺には一番札所から四番札所まである。発願の一番札所は別として、二番札所から四番札所は車にて巡礼した。

(2015年3月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)

参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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坂東三十三観音四番札所(海光山長谷寺)「長谷観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音四番札所(海光山長谷寺)「長谷観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の四番札所は海光山長谷寺、神奈川県鎌倉市にある「長谷観音」である。寺伝によれば天平8年(736年)長さ三丈三寸の観音像が三浦半島の長井の浜に着き、それを徳道上人を開山と仰いで藤原房前が奉安したのが草創の伝である。長谷寺という名前の寺のほとんどが大和長谷寺信仰の系列に入るが、この鎌倉長谷寺の本尊は大和の観音像と「同木(一本の楠)」であるとされている。

養老5年(721年)大和にて観音像が同木で二体造られ、一体は大和長谷寺の本尊に、もう一体は洪水で流され15年後に三浦半島に漂着、鎌倉長谷寺の本尊になったという伝である。実際には寺の創建年代や本尊の造立時期は不明であり、「吾妻鏡」にも記載がないらしい。

鐘楼、現在の梵鐘は昭和59年(1984年)新鋳。         (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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かつての梵鐘は文永元年(1264年)鋳造の銘を持つ重要文化財。宝物館にて展示。

経蔵、堂内に回転式書架「輪蔵」がある。
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書架には一切経(大蔵経)が収められており、書架を一回転させることで一切経を読誦(どくじゅ)した功徳が得られるという。

境内の坂の途中にある「良縁地蔵」、微笑ましい。
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御朱印
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詠歌「長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由井のみぎわに 立つは白波」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

鎌倉近辺には一番札所から四番札所まである。発願の一番札所は別として、二番札所から四番札所は車にて巡礼した。

(2015年3月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)

長谷寺付近地図


四番札所の長谷寺は四季を通じて花が絶えない古刹であるが、梅雨時は眺望散策路に紫陽花が織り成し、鎌倉でも有数の景勝地となる。

眺望散策路にある十一面千手観音像。(2019年6月 撮影機材 Nikon Df )  (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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長谷観音本尊は撮影禁止だけど、ここは撮影可、ありがたく撮影させていただいた。

参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)

関連ブログ:「鎌倉 長谷寺」
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