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坂東三十三観音二十六番札所(南明山清瀧寺)「清瀧観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音二十六番札所(南明山清瀧寺)「清瀧観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の二十六番札所は南明山清瀧寺、茨城県土浦市にある「清瀧観音」である。この寺の草創は推古天皇15年(607年)勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したことにあるという。開基は僧行基、山の南の清明なる滝口に寺を建てたのが始まりとされる。大同年間(806年〜810年)に徳一上人により山の中腹に移され、後に現在の地に観音堂が建てられた。

参道入口と山門(仁王門)。
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山門は天保年間(1830年〜1844年)の建立と云われている。

昭和44年(1969年)、不審火により本堂(観音堂)が焼失、残念ながら本尊も焼失した。

昭和52年(1977年)に再建された本堂(観音堂)。       (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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聖徳太子御作の本尊は焼失したので、昭和54年開眼の聖観世音菩薩が本尊として祀られている。

御朱印
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詠歌「わが心 今より後は にごらじな 清瀧寺へ 詣る身なれば」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

清瀧寺付近地図


筑波山近辺には二十四番、二十五番、二十六番の札所があるが、交通は不便なところなので、車にて巡礼。

(2015年2月下旬 撮影機材 Nikon D5100)
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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