彦根城(滋賀県)夏 [近畿地方の旅]
彦根城 夏
滋賀県彦根市の彦根城、関ヶ原の合戦後、徳川家康公の命による佐和山城(石田三成居城)一掃にあたり、この地を拝領した井伊氏によって佐和山ではなく彦根山に築城が決定され慶長9年(1604年)より着工。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、城郭改造など行い完成は元和8年(1622年)。
井伊氏は徳川幕府の譜代大名の中では最高の30万石、別に幕府領5万石の預かりがあり35万石。
天守は三層三階地下一階の望楼型で国宝指定されている。現存する国宝天守五城の一つである。
訪れたのは梅雨時、曇り空の彦根城。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
三層三階の天守。国宝。
本丸に入る太鼓門櫓の前に茶店「聴鐘庵」があり、お抹茶でいっぷく。右側に見えるのは時報鐘。
城の北東にある大名庭園「玄宮園」から天守を望む。
雨が降ってきた・・。
彦根城付近地図
(2010年6月中旬 撮影機材 Nikon D80)
滋賀県彦根市の彦根城、関ヶ原の合戦後、徳川家康公の命による佐和山城(石田三成居城)一掃にあたり、この地を拝領した井伊氏によって佐和山ではなく彦根山に築城が決定され慶長9年(1604年)より着工。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、城郭改造など行い完成は元和8年(1622年)。
井伊氏は徳川幕府の譜代大名の中では最高の30万石、別に幕府領5万石の預かりがあり35万石。
天守は三層三階地下一階の望楼型で国宝指定されている。現存する国宝天守五城の一つである。
訪れたのは梅雨時、曇り空の彦根城。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
三層三階の天守。国宝。
本丸に入る太鼓門櫓の前に茶店「聴鐘庵」があり、お抹茶でいっぷく。右側に見えるのは時報鐘。
城の北東にある大名庭園「玄宮園」から天守を望む。
雨が降ってきた・・。
彦根城付近地図
(2010年6月中旬 撮影機材 Nikon D80)
太陽の塔(大阪府) [近畿地方の旅]
万博記念公園 太陽の塔
昭和45年(1970年)に大阪で開催された日本万国博覧会、テーマは「人類の進歩と調和」。その大阪万博のシンボルとして広場の大屋根を貫き、そびえていたのが「太陽の塔」。岡本太郎制作のこの塔は万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。
京都・奈良に修学旅行に行く中高生は、多くの学校で修学旅行の日程に大阪万博見学が組まれた。当時修学旅行に行く年度でない身としては悔しかったが、それだけ思い入れは残った。
伊丹空港よりモノレールで万博公園駅に向かうと車内から「太陽の塔」に出会う。
思った以上に大きく、かつ存在感を感じるのは思い入れか、歳のせいか。
万博公園駅から見る「太陽の塔」
「太陽の塔・三つの顔」
「黄金の顔」は未来を象徴する。
「太陽の顔」は現在を象徴。
「黒い太陽」は塔の背面、過去を象徴。
撮影した日は雨が降りそな曇り空、画像も彩度を落として「顔」に雰囲気を出したつもり。
「太陽の塔」付近地図
(2009年8月中旬 撮影機材 Nikon D40)
昭和45年(1970年)に大阪で開催された日本万国博覧会、テーマは「人類の進歩と調和」。その大阪万博のシンボルとして広場の大屋根を貫き、そびえていたのが「太陽の塔」。岡本太郎制作のこの塔は万博終了後も引き続き万博記念公園に残された。
京都・奈良に修学旅行に行く中高生は、多くの学校で修学旅行の日程に大阪万博見学が組まれた。当時修学旅行に行く年度でない身としては悔しかったが、それだけ思い入れは残った。
伊丹空港よりモノレールで万博公園駅に向かうと車内から「太陽の塔」に出会う。
思った以上に大きく、かつ存在感を感じるのは思い入れか、歳のせいか。
万博公園駅から見る「太陽の塔」
「太陽の塔・三つの顔」
「黄金の顔」は未来を象徴する。
「太陽の顔」は現在を象徴。
「黒い太陽」は塔の背面、過去を象徴。
撮影した日は雨が降りそな曇り空、画像も彩度を落として「顔」に雰囲気を出したつもり。
「太陽の塔」付近地図
(2009年8月中旬 撮影機材 Nikon D40)
二条城(京都府) [近畿地方の旅]
元離宮二条城 梅雨どき
京都府二条通にある二条城は、徳川家康が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した。慶長8年(1603年)に落成、但し天守は慶長11年(1606年)に完成した。しかし天守は寛延3年(1750年)に落雷により焼失し現存していない。
明治17年(1884年)に宮内省の所管となり「二条離宮」となるが、昭和14年(1939年)に京都市に下賜され翌年から「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。現在の正式名称である。
城内全体が国の史跡であり、二の丸御殿(6棟)は国宝、重要文化財は多数あり、平成6年(1994年)には世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。
二の丸御殿の「遠侍」及び「車寄」、国宝である。
右手前にあるのが「車寄」。
二の丸御殿の「唐門」、重要文化財。
訪問時は梅雨のこぬか雨、傘をさしながらの撮影。
数十年前の修学旅行以来の訪問、下の写真はその時撮影した「遠侍」及び「車寄。
1971年5月上旬撮影、35㎜フィルムからスキャン
元離宮二条城付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
京都府二条通にある二条城は、徳川家康が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した。慶長8年(1603年)に落成、但し天守は慶長11年(1606年)に完成した。しかし天守は寛延3年(1750年)に落雷により焼失し現存していない。
明治17年(1884年)に宮内省の所管となり「二条離宮」となるが、昭和14年(1939年)に京都市に下賜され翌年から「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。現在の正式名称である。
城内全体が国の史跡であり、二の丸御殿(6棟)は国宝、重要文化財は多数あり、平成6年(1994年)には世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。
二の丸御殿の「遠侍」及び「車寄」、国宝である。
右手前にあるのが「車寄」。
二の丸御殿の「唐門」、重要文化財。
訪問時は梅雨のこぬか雨、傘をさしながらの撮影。
数十年前の修学旅行以来の訪問、下の写真はその時撮影した「遠侍」及び「車寄。
1971年5月上旬撮影、35㎜フィルムからスキャン
元離宮二条城付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
龍安寺石庭(京都府) [近畿地方の旅]
龍安寺石庭 梅雨どき
京都府京都市右京区にある臨済宗の禅寺。平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、宝徳2年(1450年)室町幕府管領の細川勝元が譲り受け、創建された。応仁の乱で全焼したが、勝元の子(改元)が復興、細川家の菩提寺として、豊臣家、徳川家からも庇護を受けた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる、枯山水庭園。
茶室蔵六庵前にある「吾唯知足」の蹲(つくばい)。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
禅の格言「吾唯知足」は仏教の真髄であるとの事、蹲は徳川光圀の寄進とされる。
欲にまみれた我身を省み、戒めのため売店で見つけたオブジェを購入。
栓抜きです。これでビール飲むのもなんだかなあ・・・吾唯知足。
龍安寺付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
京都府京都市右京区にある臨済宗の禅寺。平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、宝徳2年(1450年)室町幕府管領の細川勝元が譲り受け、創建された。応仁の乱で全焼したが、勝元の子(改元)が復興、細川家の菩提寺として、豊臣家、徳川家からも庇護を受けた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
有名な石庭は、明応8年(1499年)に方丈が建立された際の造営といわれる、枯山水庭園。
茶室蔵六庵前にある「吾唯知足」の蹲(つくばい)。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
禅の格言「吾唯知足」は仏教の真髄であるとの事、蹲は徳川光圀の寄進とされる。
欲にまみれた我身を省み、戒めのため売店で見つけたオブジェを購入。
栓抜きです。これでビール飲むのもなんだかなあ・・・吾唯知足。
龍安寺付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
仁和寺(京都府) [近畿地方の旅]
仁和寺 梅雨どき
仁和寺は第58代光考天皇の発願により、仁和4年(888年)に建立された。皇族出身者が代々の住職(門跡)を務め、門跡寺院として最高の格式を保っていたが、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で一山のほとんどを兵火で焼失した。
江戸時代に入り寛永11年(1634年)、上洛していた徳川幕府3代将軍徳川家光に仁和寺再興の申し入れがなされ、承諾される。慶長の御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(金堂)、清涼殿(御影堂)などの建物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完成し創建時の姿に戻ることが出来た。
慶応3年(1867年)、第30世の純仁法親王が還俗したことにより宮門跡の歴史を終える。現在は真言宗御室派の総本山であり、平成6年「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
京都では珍しい道路に面した「仁王門」、京都3大門のひとつだとか、大きい。
梅雨どきなので曇り空、逆光にならなくてよいけど。
仁王門から進むと「金堂」に、御所から移築の紫宸殿、国宝。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
塀に囲まれた書院から眺める庭と五重塔。
書院に繋がる宸殿ではお抹茶がいただけますので、一服。
仁和寺の五重塔は重要文化財、桜越しの画が「鬼平犯科帳」(中村吉右衛門主演)のエンディング映像に出てくる。
仁和寺付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
仁和寺は第58代光考天皇の発願により、仁和4年(888年)に建立された。皇族出身者が代々の住職(門跡)を務め、門跡寺院として最高の格式を保っていたが、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で一山のほとんどを兵火で焼失した。
江戸時代に入り寛永11年(1634年)、上洛していた徳川幕府3代将軍徳川家光に仁和寺再興の申し入れがなされ、承諾される。慶長の御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(金堂)、清涼殿(御影堂)などの建物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完成し創建時の姿に戻ることが出来た。
慶応3年(1867年)、第30世の純仁法親王が還俗したことにより宮門跡の歴史を終える。現在は真言宗御室派の総本山であり、平成6年「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
京都では珍しい道路に面した「仁王門」、京都3大門のひとつだとか、大きい。
梅雨どきなので曇り空、逆光にならなくてよいけど。
仁王門から進むと「金堂」に、御所から移築の紫宸殿、国宝。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
塀に囲まれた書院から眺める庭と五重塔。
書院に繋がる宸殿ではお抹茶がいただけますので、一服。
仁和寺の五重塔は重要文化財、桜越しの画が「鬼平犯科帳」(中村吉右衛門主演)のエンディング映像に出てくる。
仁和寺付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)