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坂東三十三観音三番札所(祇園山安養院田代寺)「田代観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音三番札所(祇園山安養院田代寺)「田代観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の三番札所は祇園山安養院田代寺、神奈川県鎌倉市にある「田代観音」である。寺伝によれば源頼朝の家臣田代信綱が深く観世音を信仰し、戦場で危難を逃れて幾たびの武勲を立てた報恩に、建久3年(1192年)に尊乗上人を開山として白花山田代寺を創建した。一方、嘉禄元年(1225年)北条政子が頼朝の菩提を弔うため、祇園山長楽寺を建立した。政子もここに祀られたが、元弘3年(1333年)兵火によって焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。安養院は政子の法名である。この安養院長楽寺も延宝8年(1680年)に火災に会ったため、田代寺を移して統合され、祇園山安養院田代寺として復興した。本尊は千手観世音菩薩で田代寺にあったものである。

「田代観音坂東三番」の石柱、宝永2年(1705年)江戸浜松町の山田喜右衛門という方が奉納。
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観音堂は昭和3年(1928年)の建立。
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御朱印
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詠歌「枯樹にも 花咲く誓い 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

田代寺付近地図


鎌倉近辺には一番札所から四番札所まである。発願の一番札所は別として、二番札所から四番札所は車にて巡礼した。

(2015年3月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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