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吉備津神社(岡山県)三備一宮 [山陽地方の旅]

吉備津神社(岡山県)三備一宮
岡山市西部、吉備中山の北西麓に鎮座する「吉備津神社」、備中国の一宮である。この神社は、かつて吉備国の総鎮守だったが、吉備国の三国分割により備中国一宮となり、分霊を備前国一宮・吉備津彦神社、備後国一宮・吉備津神社(広島県)で祀った。この故事により備中「吉備津神社」を「三備一宮」と云うらしい。
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参道の石段を登っていくと「北随神門」をくぐる。        (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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室町時代、天文11年(1542年)の再建と云う。

「拝殿」これに続く「本殿」とともに国宝である。
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祭神は「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」第七代孝霊天皇の皇子で、一説によると第十代崇神天皇の御代に西道(山陽道)平定のため遣わされと云われる。この神社には桃太郎伝説の元となる「鬼退治伝説」がある。

鬼退治伝説(温羅退治)、昔々の吉備の国
昔々、平和に暮らしていた吉備の国に、百済の国の王子「温羅」が住み着き悪さをした。この退治に朝廷より吉備津彦命が遣わされ、吉備中山に陣をとり鬼神(温羅)と戦う。双方、弓矢を射りて戦い、吉備津彦命の矢が温羅を射る。この戦いで吉備津彦命が矢を置いた岩を「矢置岩」と呼ぶ。
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参道入口には「矢置岩」。「鬼退治伝説」は吉備津神社HPより抜粋。

拝殿を右に進むとなが〜い「回廊」。
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戦国時代、天正年間(1573-1591年)の造営らしい。       (Shutterstock my portfolioに掲載)
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山の麓まで続く様な・・総延長398m。

回廊の途中にある「南随神門」。
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南北朝時代、延文2年(1357年)の再建で吉備津神社では最古の建造物と云う。

境内にある幾多の社、回廊内に看板あり。
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吉備津神社の造営は定かではないらしく、吉備津彦命から三代目の孫が初めて社殿を造りお祀りしたと云う説や、五代目の孫が祖神としてお祀りしたのが起源という説、仁徳天皇行幸の折に吉備津彦の功績を聞き社殿を創建してお祀りしたのが起源とかいろいろあるみたい・・。

「本殿」は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)と云う造りで、国宝である。
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応永32年(1425年)に遷座、室町幕府三代将軍・足利義満の造営とされる。

鳴釜神事
吉備津神社に伝わる神事「鳴釜神事」は「温羅退治」に由来する。吉備津彦命により晒された温羅の首は唸り声あげて止まない、命は首を御竈殿の釜の下に埋めたが唸り声は止まない。困り果てていると、夢枕に温羅の霊が現れ「温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛(巫女)に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げよう」と答え、唸り声は止んだ。ここから神事が始まったと云う。

吉備津神社付近地図


今回の旅は、JALの「どこかにマイル」で岡山空港を選び、桃太郎伝説の地であるこの地を訪れた。

余談であるが、2022年に訪れた「箸墓古墳」の埋葬者「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) 」は 大吉備津彦命の姉であるらしい。

(2023年2月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:箸墓古墳
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岡山城(岡山県)令和の大改修を終えて [山陽地方の旅]

岡山城・令和の大改修を終えて
備前国の岡山城(別名:烏城、金烏城)、戦国時代の城である。かつて岡山城天守は国宝であったが、昭和20年(1945年)の空襲により焼失。外観復元された天守が昭和41年(1966年)に築造されたが、耐震補強を含めた大改修が令和4年(2022年)11月まで行われた。

令和の大改修を終えた岡山城天守。               (Shutterstock my portfolioに掲載)
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岡山城は豊臣政権の五大老である宇喜多秀家が、もとの居城である石山城を取込む形で城郭を再構築し、本丸を「岡山」(この近辺の丘のひとつ)に置いた城である。宇喜多秀家は備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4千石の領主である。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は敗軍となり、岡山城にはかの小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。しかし、秀秋は2年後に急死、小早川家は断絶となった。
慶長8年(1603年)備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に、寛永9年(1632年)には31万5千石で池田光政が入封し、以降幕末まで光政系池田家の居城となった。

岡山城は現在「烏城公園」となっている。
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公園に入るとすぐに「鏡石」。
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石垣をたどり本丸に向かう。
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本丸への入口「不明門」(天守と同時に鉄筋コンクリートで外観復元された) (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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岡山城天守と塩蔵。
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「月見櫓 」 元和・寛永年間(1615-1632年)築、重要文化財。
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本丸の北西隅に建つ。

天守からみえる日本三名園のひとつ「岡山後楽園」。
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岡山藩主:池田綱政が元禄13年(1700年)に完成させたと云う。

岡山後楽園の名は小さい頃、切手の趣味で知った。日本三名園切手「水戸偕楽園」「岡山後楽園」「金沢兼六園」、切手の額面は15円。後楽園の図柄は鶴と庭園で背景に小さく岡山城天守・・まだ、持っている。

岡山城付近地図


(2023年2月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:金沢兼六園
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吉備津彦神社(岡山県)備前国一宮 [山陽地方の旅]

吉備津彦神社
備前国の一宮である「吉備津彦神社」、岡山県岡山市北区一宮にある神社である。祭神は「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」第七代孝霊天皇の皇子で、第十代崇神天皇の御代に将軍として山陽道に派遣され、吉備を平定したと云われる。

吉備国の総鎮守は岡山市西部、吉備中山の北西麓に鎮座する「吉備津神社」cであった。大化の改新を経て吉備国は備前・備中・備後に分割、これにより「吉備津神社」祭神である「大吉備津彦命」の分霊を備前国一宮「吉備津彦神社」、備後国一宮「吉備津神社(広島県)」で祀ることになった。

「吉備津彦神社」と「吉備津神社(三備一宮)」は備前・備中と国が違うとはいえ、極めて近距離(2㎞程)である。「吉備津彦神社」は夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで祭文殿の鏡に当たる造りになっているらしく別名「朝日の宮」と呼ばれるらしい。
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訪れたのは冬だけど、雨天で、日も差していない・・。

吉備津彦神社「随身門」。
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随身門から拝殿を望む。
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拝殿。
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本殿。
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祭神たる「吉備津彦命」には桃太郎伝説の元となる「鬼退治伝説」がある。

鬼退治伝説(温羅退治)、昔々の吉備の国
昔々、平和に暮らしていた吉備の国に、百済の国の王子「温羅」が住み着き悪さをした。この退治に朝廷より吉備津彦命が遣わされ、吉備中山に陣をとり鬼神(温羅)と戦う。双方、弓矢を射りて戦い、吉備津彦命の矢が温羅を射たと云う。

吉備津彦神社付近地図


今回の旅は、JALの「どこかにマイル」で岡山空港を選び、桃太郎伝説の地であるこの地を訪れた。

余談であるが、2022年に訪れた「箸墓古墳」の埋葬者「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) 」は 大吉備津彦命の姉である。

(2023年2月中旬 撮影機材 Nikon Df )
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戦艦大和と零戦62型(広島県) [山陽地方の旅]

戦艦大和と零戦62型
戦艦大和の1/10模型が置かれている呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)、ここに旧日本海軍の零式艦上戦闘機62型が展示されている。零戦62型(A6M7)は爆戦で250キロ爆弾投下装置を装備し、水平安定板を補強、増槽は2個に分けて左右翼下に移す等の改造が行われている。

九九艦爆の性能が時代遅れとなり、後継機彗星の小型空母運用が困難なため、代用として零戦を急降下爆撃機として改造したという苦肉の策である。

型式について大和ミュージアムでは62型と表記されているが、堀越二郎/奥宮正武共著「零戦」にはA6M7は63型として記載されている。幾多の雑誌等でもA6M7の62型と63型は混在しており、発動機が栄21型か栄31型かの混乱によるものと思われるが、よくわからない。併記してある本もある。

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部隊表記は第210海軍航空隊、愛知県明治基地。
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戦艦大和の1/10模型、後方から撮影、零式水上観測機(零観)を搭載している。
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中庭のデッキは戦艦大和の左半分を実寸大で表現、「戦艦大和」の大きさが実感できる。
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大和ミュージアムの近くにある海上自衛隊呉資料室「てつのくじら館」。
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実物の潜水艦「あきしお」が展示されており、潜水艦内部の見学という貴重な体験ができる。

零戦手拭と零戦52型丙、手拭は大和ミュージアムのお土産。     零戦52型丙は自作の模型(TAMIYA製)
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大和ミュージアム付近地図


(2007年9月 撮影機材 Nikon D80)
読んだ本(Amazonの該当頁へ):堀越二郎/奥宮正武共著「零戦」
作った模型: 零戦52型丙(TAMIYAのHPへ)
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戦艦大和(広島県)大和ミュージアム [山陽地方の旅]

戦艦大和
戦艦大和は大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦、史上最大の46㎝砲を搭載した超弩級戦艦である。基準排水量64,000t、全長263m、幅38.9m、4基4軸で15万馬力、最大速力27ノット。呉海軍工廠で建造され、昭和16年(1941年)12月に竣工、翌年2月に聯合艦隊旗艦となった。昭和20年(1945年)4月、天一号作戦(菊水作戦)にて沖縄に向かう途中、米軍の攻撃を受け沈没。

呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)には戦艦大和の1/10模型が置かれている.

戦艦大和の1/10模型、零式水上観測機(零観)を搭載している。
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戦艦大和の1/10模型、全景。
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戦艦大和の沈没地点は北緯30度、東経128度で長崎県男女群島南方176㎞、鹿児島県宇治群島西方144㎞、水深345mの地点らしい。戦艦大和が被弾した魚雷数は12本から14本でほとんど左舷に集中との事である。

大和型戦艦の二番艦は「武蔵」で三菱重工長崎造船所で昭和17(1942年)年8月に竣工。戦艦武蔵については吉村昭著「戦艦武蔵」が読み物としても面白く、一読をお勧めする。三番艦「信濃」は横須賀海軍工廠での建造だが、空母に設計変更され昭和19年(1944年)11月に竣工かつ沈没した。

大和ミュージアムには戦艦大和以外の展示も多い。

人間魚雷「回天」
回天は大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。
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脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はない。人が乗れるというのが信じられないくらいの大きさである。閉所恐怖症では絶対ムリ。

零式艦上戦闘機62型
零戦62型(A6M7)は爆戦で250キロ爆弾投下装置を装備し、水平安定板を補強、増槽は2個に分けて左右翼下に移す等の改造が行われている。九九艦爆の性能が時代遅れとなり、後継機彗星の小型空母運用が困難なため、代用として零戦を急降下爆撃機として改造したという機体である。
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部隊表記は第210海軍航空隊、愛知県明治基地。

零戦の型式について大和ミュージアムでは62型と表記されているが、堀越二郎/奥宮正武共著「零戦」にはA6M7は63型として記載されている。幾多の雑誌等でもA6M7の62型と63型は混在しており、発動機が栄21型か栄31型かの混乱によるものと思われるが、よくわからない。併記してある本もある。

大和ミュージアムの近くには海上自衛隊呉資料室「てつのくじら館」がある。
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実物の潜水艦「あきしお」が展示されており、潜水艦内部の見学という貴重な体験ができる。

零戦手拭と零戦52型丙、手拭は大和ミュージアムのお土産。     零戦52型丙は自作の模型(TAMIYA製)
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大和ミュージアム付近地図


(2014年9月中旬 撮影機材 Nikon D5100)
読んだ本(Amazonの該当頁へ):吉村昭著「戦艦武蔵」堀越二郎/奥宮正武共著「零戦」
作った模型: 零戦52型丙(TAMIYAのHPへ)
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