岡山城(岡山県)令和の大改修を終えて [日本の城]
岡山城・令和の大改修を終えて
備前国の岡山城(別名:烏城、金烏城)、戦国時代の城である。かつて岡山城天守は国宝であったが、昭和20年(1945年)の空襲により焼失。外観復元された天守が昭和41年(1966年)に築造されたが、耐震補強を含めた大改修が令和4年(2022年)11月まで行われた。
令和の大改修を終えた岡山城天守。 (Shutterstock my portfolioに掲載)
岡山城は豊臣政権の五大老である宇喜多秀家が、もとの居城である石山城を取込む形で城郭を再構築し、本丸を「岡山」(この近辺の丘のひとつ)に置いた城である。宇喜多秀家は備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4千石の領主である。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は敗軍となり、岡山城にはかの小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。しかし、秀秋は2年後に急死、小早川家は断絶となった。
慶長8年(1603年)備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に、寛永9年(1632年)には31万5千石で池田光政が入封し、以降幕末まで光政系池田家の居城となった。
岡山城は現在「烏城公園」となっている。
公園に入るとすぐに「鏡石」。
石垣をたどり本丸に向かう。
本丸への入口「不明門」(天守と同時に鉄筋コンクリートで外観復元された)。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
岡山城天守と塩蔵。
「月見櫓 」 元和・寛永年間(1615-1632年)築、重要文化財。
本丸の北西隅に建つ。
天守からみえる日本三名園のひとつ「岡山後楽園」。
岡山藩主:池田綱政が元禄13年(1700年)に完成させたと云う。
岡山後楽園の名は小さい頃、切手の趣味で知った。日本三名園切手「水戸偕楽園」「岡山後楽園」「金沢兼六園」、切手の額面は15円。後楽園の図柄は鶴と庭園で背景に小さく岡山城天守・・まだ、持っている。
岡山城付近地図
(2023年2月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:金沢兼六園
備前国の岡山城(別名:烏城、金烏城)、戦国時代の城である。かつて岡山城天守は国宝であったが、昭和20年(1945年)の空襲により焼失。外観復元された天守が昭和41年(1966年)に築造されたが、耐震補強を含めた大改修が令和4年(2022年)11月まで行われた。
令和の大改修を終えた岡山城天守。 (Shutterstock my portfolioに掲載)
岡山城は豊臣政権の五大老である宇喜多秀家が、もとの居城である石山城を取込む形で城郭を再構築し、本丸を「岡山」(この近辺の丘のひとつ)に置いた城である。宇喜多秀家は備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4千石の領主である。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は敗軍となり、岡山城にはかの小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。しかし、秀秋は2年後に急死、小早川家は断絶となった。
慶長8年(1603年)備前28万石は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に、寛永9年(1632年)には31万5千石で池田光政が入封し、以降幕末まで光政系池田家の居城となった。
岡山城は現在「烏城公園」となっている。
公園に入るとすぐに「鏡石」。
(c)ikeyama - 画像素材 PIXTA -
石垣をたどり本丸に向かう。
本丸への入口「不明門」(天守と同時に鉄筋コンクリートで外観復元された)。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
岡山城天守と塩蔵。
「月見櫓 」 元和・寛永年間(1615-1632年)築、重要文化財。
本丸の北西隅に建つ。
天守からみえる日本三名園のひとつ「岡山後楽園」。
岡山藩主:池田綱政が元禄13年(1700年)に完成させたと云う。
岡山後楽園の名は小さい頃、切手の趣味で知った。日本三名園切手「水戸偕楽園」「岡山後楽園」「金沢兼六園」、切手の額面は15円。後楽園の図柄は鶴と庭園で背景に小さく岡山城天守・・まだ、持っている。
岡山城付近地図
(2023年2月中旬 撮影機材 Nikon Df )
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