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坂東三十三観音五番札所(飯泉山勝福寺)「飯泉観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音五番札所(飯泉山勝福寺)「飯泉観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の五番札所は飯泉山勝福寺、神奈川県小田原市飯泉にある飯泉観音である。縁起によれば天平勝宝5年(753年)唐僧鑑真和上が将来した十一面観音像が、孝謙天皇に献上され弓削道鏡に下賜、のちに道鏡が下野国に下る途次、この村に一宇を建てて奉安したのに始まると云う。初めは普陀落山弓削寺と称し、弓削氏の氏寺であったらしい。

飯泉山勝福寺は、この普陀落山弓削寺が室町期に今の所に移され、応永25年(1418年)に勝福寺の勅号を賜ったと云う。

飯泉山勝福寺の仁王門。                    (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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勝福寺には曾我兄弟が仇討ちの成功を祈り日参、この仁王尊から力を授かったらしい。
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曾我兄弟の仇討ち
建久4年(1193年)5月、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。日本三大仇討ちの一つであり、武士社会において仇討ちの模範とされる。江戸時代に、能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材となり、人気を得た。(関連ブログ:富士・音止の滝)

本堂は宝永3年(1706年)の再建。
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本尊は十一面観世音菩薩、本堂内陣の厨子に納められており、三十三年ごとの開扉との事。

本堂から境内を撮影、雨上がり。
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境内で存在感を示す大銀杏、樹齢およそ千年という。
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手水舎の傍に二宮金次郎礼拝の像がある。
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本堂を拝む。
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文化元年(1804年)二宮金次郎18歳の時、この勝福寺で観音経の訓読を聞き、深く感ずるところがあったという。のちに農村復興政策を指導し、数多くの逸話を残す二宮尊徳、真摯な人柄が伺える・・。

納経所は本堂向かって右、一度境内を出た所で御朱印をいただく。
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御朱印
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詠歌「かなはねば たすけたまえと 祈る身の 船に宝を つむはいいづみ」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

飯泉山勝福寺付近地図


今回は、坂東六番札所の飯山観音から七番札所の光明寺を巡り、湯河原に一泊、五番札所の勝福寺、八番札所の星谷寺と巡礼した。

(2015年10月中旬 撮影機材 Nikon Df )

参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)

関連ブログ:富士・音止の滝
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