松山城(愛媛県)晩秋 [日本の城]
松山城 晩秋
伊予の国、愛媛県松山市にある松山城。慶長7年(1602年)伊予の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦功により加増され、松山市の中心部である勝山(城山)山頂に築城を始める。しかし加藤氏は寛永4年(1627年)会津に転封となり、そのあとは蒲生氏が入国するが寛永11年(1634年)に断絶、そして寛永12年(1635年)に松平氏が松山藩主15万石に封じられ、明治維新に至る。
当初の天守は五重であったが、寛永19年(1642年)に三重に改築、しかし天明4年(1784年)元旦に落雷により焼失した。現在の天守は安政元年(1854年)に復興したものである。
昭和に入ってからも放火や戦災で櫓や小天守の被災があったが、復興が進められ現在に至っている。
松山城の天守、連立式で大天守と小天守からなる。現存12天守の一つである。旧国宝、現在は重要文化財に指定されている。
松山城山公園から松山城を望む。
麓の石垣は二之丸跡、明治時代は陸軍省の管轄。
「松山や 秋より高き 天主閣」(正岡子規) ・・・ 晴れていれば冴える句・・
二之丸跡から天守に向かう途上。晩秋の紅葉が残っている。
山中を抜け、城郭に近づくと天守が望める。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
本丸に入ると広場になっており、大天守と小天守が迎えてくれる。
天守の入り口には松山城マスコットキャラクター「よしあきくん」。
入場料を払って入城。
城内は昔のままなので、ややこしく囲った門。
天守から本丸広場と松山市街を望む。
松山藩主の松平氏は久松松平家、久松氏は徳川家康の母である於大の方が嫁入りしており、家康により松平姓と葵紋が授けられ、松平家一門になった。
松山城付近地図
私ごとですが数十年前の上司が久松さんで、松山藩主の子孫の方でした。会社でも「殿」と呼ばれ、決済は「よきにはからえ」と・・(冗談です)。で、まったく忘れてまして天守に入り、そこかしこに「久松」の文字を見て突然ここが「殿」の城であることを思い出しました。すでに、お亡くなりです。合掌。
(2011年12月中旬 撮影機材 Nikon D5000 )
伊予の国、愛媛県松山市にある松山城。慶長7年(1602年)伊予の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦功により加増され、松山市の中心部である勝山(城山)山頂に築城を始める。しかし加藤氏は寛永4年(1627年)会津に転封となり、そのあとは蒲生氏が入国するが寛永11年(1634年)に断絶、そして寛永12年(1635年)に松平氏が松山藩主15万石に封じられ、明治維新に至る。
当初の天守は五重であったが、寛永19年(1642年)に三重に改築、しかし天明4年(1784年)元旦に落雷により焼失した。現在の天守は安政元年(1854年)に復興したものである。
昭和に入ってからも放火や戦災で櫓や小天守の被災があったが、復興が進められ現在に至っている。
松山城の天守、連立式で大天守と小天守からなる。現存12天守の一つである。旧国宝、現在は重要文化財に指定されている。
松山城山公園から松山城を望む。
麓の石垣は二之丸跡、明治時代は陸軍省の管轄。
「松山や 秋より高き 天主閣」(正岡子規) ・・・ 晴れていれば冴える句・・
二之丸跡から天守に向かう途上。晩秋の紅葉が残っている。
山中を抜け、城郭に近づくと天守が望める。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
本丸に入ると広場になっており、大天守と小天守が迎えてくれる。
天守の入り口には松山城マスコットキャラクター「よしあきくん」。
入場料を払って入城。
城内は昔のままなので、ややこしく囲った門。
(c)ike-yanma - 画像素材 PIXTA -
天守から本丸広場と松山市街を望む。
松山藩主の松平氏は久松松平家、久松氏は徳川家康の母である於大の方が嫁入りしており、家康により松平姓と葵紋が授けられ、松平家一門になった。
松山城付近地図
私ごとですが数十年前の上司が久松さんで、松山藩主の子孫の方でした。会社でも「殿」と呼ばれ、決済は「よきにはからえ」と・・(冗談です)。で、まったく忘れてまして天守に入り、そこかしこに「久松」の文字を見て突然ここが「殿」の城であることを思い出しました。すでに、お亡くなりです。合掌。
(2011年12月中旬 撮影機材 Nikon D5000 )
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