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三内丸山遺跡(青森県) [東北地方の旅]

三内丸山遺跡
青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡である。八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20m、遺跡は約40haの広大な範囲に広がっている。

ここには縄文時代の竪穴式住居や倉庫、三内丸山遺跡を象徴する三層の六本柱建物(掘立柱建物)が再現されており、縄文の大規模集落が実感できる。           (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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この地に遺跡が存在することは江戸時代から知られていたらしいが、ここに新しい県営野球場を建設するため事前調査を行った平成4年(1992年)に、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、既に着工を開始していた野球場建設を中止し、遺跡の保存が決定したと云う・・。

三内丸山遺跡の出土品を展示する施設「縄文時遊館」から入場。
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青森駅からバスが出てるけど、本数が少ないから注意。

遺跡への入り口は・・まるで「タイムトンネル」。
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三内丸山遺跡の案内板。
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少し歩くと、三層の六本柱建物と大型竪穴住居。
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竪穴式住居は上部構造が残っていないので「茅葺き」「樹皮葺き」「土葺き」住居が想定・復元されている。
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「茅葺き竪穴式住居」
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「土葺き竪穴式住居」
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「樹皮葺き竪穴式住居」の屋根部分。
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「高床式倉庫」(掘立柱建物跡から想定・復元)。
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掘立柱建物のものであると推測される柱穴群から想定・復元された「高床式倉庫」である。

復元された住居跡を撮影しながら歩いていると、この集落はとても大きい事を実感する。これほどの規模の集落が終焉を迎えたのは、アジア中緯度域の寒冷化によるものであると云う。

陸奥湾における過去の環境調査によると、三内丸山遺跡が栄えた約5000年前は,現在より2.0℃ほど温暖であった。しかし,約4200年前の突然の寒冷化(2.0℃)により、食物の調達が困難になり、人々は集落を放棄したと思われる。中国の長江周辺,西アジアのメソポタミアなど、アジアの中緯度域の文明においてもほぼ同時に衰退しており、この時期に寒冷化あるいは乾燥化などの影響があったと考えられる。東京大学大学院新領域創成科学研究科資料から抜粋)

2021年7月に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録が決まった。

三内丸山遺跡付近地図


(2020年10月中旬 撮影機材 Nikon Df )
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三内丸山遺跡(青森県)六本柱建物と大型竪穴式住居 [東北地方の旅]

三内丸山遺跡「六本柱建物と大型竪穴式住居」
青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡である。八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20m、遺跡は約40haの広大な範囲に広がっている。

三内丸山遺跡を象徴する三層の六本柱建物と大型竪穴式住居。   (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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遺跡では大型竪穴式住居跡がいくつも出土、復元された最大の大型竪穴式住居(長さ32m、幅10m)。
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大型竪穴式住居内部。
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大型竪穴式住居の出入り口から見える「六本柱建物」。
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六本柱建物と大型竪穴式住居は隣接。
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六本柱建物跡は柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て統一されている。柱は2度ほど内側に傾けて立てられていると云う(現代の内転(うちころび)と同じ技法)
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六本柱建物は「季節時計」の配置であり、三連柱で示される縦軸は「冬至日没と夏至日出」、六本柱の対角線の一つは「春分・秋分の日出・日没」を示していると云う。日本の文化は「春分・秋分」を意識しているものが多いが、世界的にはそうでもないらしい・・。縄文文化が日本人の未来を拓く:小林達夫著より)

出土した「六本柱建物」の柱、施設「縄文時遊館」に展示されている。
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「縄文時遊館」は出土品の展示施設、土偶や土器が数多く展示されている。
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三内丸山遺跡から出土する土偶は、板のような造りの「板状土偶」である。
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縄文時代は新石器時代、狩猟・採取の時代と学校で習った世代であるが、狩猟・採取・栽培による定住生活であったようである。三内丸山では集落の周辺に堅果類(栗、胡桃、栃など)の樹木を多数植栽しており、さらには荏胡麻、瓢箪、牛蒡、豆といった栽培植物も出土している。

栗の木、六本柱の周辺で。
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三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡であるが、この遺跡が存在した縄文時代中期は、日本の人口が縄文時代最大(約26万人)であったと云う。縄文晩期には人口は減少し約8万人程度となるが、三内丸山の集落を終焉させた気候の寒冷化は、縄文時代の人口減少の重要な原因の一つであったに違いない。(参考:東京大学大学院新領域創成科学研究科資料

三内丸山遺跡付近地図


(2020年10月中旬 撮影機材 Nikon Df )
読んだ本(Amazonの該当頁へ):「縄文文化が日本人の未来を拓く」(小林達夫著)
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