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種子島(鹿児島県)鉄砲館 [九州地方の旅]

種子島 鉄砲館
鹿児島県の「種子島」、鉄砲伝来の島として学校で習った。種子島の中心都市である西之表市に種子島開発綜合センター「鉄砲館」というのがあり、後学のため訪れてみた。

縄文時代は九州南部とほぼ同様の縄文文化が確認されているが、弥生時代終末期から古代にかけて独自の貝文化が展開したらしい(南種子町「広田遺跡」)。やがて律令国家の支配下に置かれ、大宝2年(702年)には令制国として隣の屋久島も含めて多禰国(たねのくに)が置かれ、国司が任じられた。しかし、平安時代前期の天長元年(824年)に多禰国は廃止され、大隅国に編入されることになる。

鎌倉時代になると見和氏、肥後氏が支配、室町時代以降には肥後氏の支族である種子島氏がこの地の支配者となる。

天文12年(1543年)8月、種子島の南端「門倉岬」にポルトガル人を乗せた明国船が漂着、14代島主 種子島時尭は彼らが所持していた2挺の鉄砲を2千両で購入、鍛治師の八板金兵衛清定に学ばせ、1年を待たずして国産化に成功した。

種子島銃(ポルトガル初伝銃)。(鉄の部分の「銃身」のみが当時伝来のものと云う)
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国産のものより銃身の厚みが薄い、照門(照準)も火皿に近い(近いほど古い時代の銃らしい)

伝 八板金兵衛作火縄銃。
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銃の模索に取り組んだ金兵衛が、どうしても出来なかった工程がネジ式の尾栓部分である。当時の日本にはネジが存在せず、その発想も製造技術もなかった。
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機械工学科の学生が最初に学ぶのが「ネジ」である。メートルネジ、インチネジ、ウィットネジと今も世界でいろんなネジが使われている。で、金兵衛はネジの作り方を教えて貰うため、ポルトガル人に娘を嫁がせたという・・ハニートラップだな。

その後、種子島(火縄銃)は戦乱の世であった日本全国に広まっていくが、種子島で鉄砲が作られたのは豊富な砂鉄もその一因であると「ブラタモリ(種子島編)」で説明していた。

鉄浜海岸
「ブラタモリ(種子島編)」のロケ地「鉄浜海岸」、黒っぽい砂浜には砂鉄が多く含まれている。
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ここはサーフィンでも有名な場所らしく、多くのサーファーが波の上に・・。
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鉄浜海岸にある「cafe Luana」というお店でランチ。
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お店の入り口から海岸を望める。
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鉄浜海岸から種子島ゴルフリゾートへと東海岸の県道75号線を下っていくと、中種子町が管理している展望台「絶景 種子島」というのがあったので、見学してみる。
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種子島東海岸の遠望ができる。正面は大塩屋漁港と云うそうな。  (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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昼が過ぎレンタカーを返却して空港へ・・雨は止んでいたが、鹿児島との路線上が荒天で飛行機は種子島への到着が危ぶまれるとのアナウンス。40分遅れで無事到着したときは、待合室から拍手が・・。
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まだ15時なのに、薄暗い種子島を離陸。
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プロペラ機は天候に左右されやすいので、乗り継ぎがあるときは不安。今回も鹿児島でのんびりすることなく羽田へ。

種子島 鉄浜海岸付近地図


(2023年4月中旬 撮影機材 Nikon Df、Nikon1 J5)
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