二条城(京都府) [日本の城]
元離宮二条城 梅雨どき
京都府二条通にある二条城は、徳川家康が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した。慶長8年(1603年)に落成、但し天守は慶長11年(1606年)に完成した。しかし天守は寛延3年(1750年)に落雷により焼失し現存していない。
明治17年(1884年)に宮内省の所管となり「二条離宮」となるが、昭和14年(1939年)に京都市に下賜され翌年から「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。現在の正式名称である。
城内全体が国の史跡であり、二の丸御殿(6棟)は国宝、重要文化財は多数あり、平成6年(1994年)には世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。
二の丸御殿の「遠侍」及び「車寄」、国宝である。
右手前にあるのが「車寄」。
二の丸御殿の「唐門」、重要文化財。
訪問時は梅雨のこぬか雨、傘をさしながらの撮影。
数十年前の修学旅行以来の訪問、下の写真はその時撮影した「遠侍」及び「車寄。
1971年5月上旬撮影、35㎜フィルムからスキャン
元離宮二条城付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
京都府二条通にある二条城は、徳川家康が京都の守護及び上洛時の宿所として造営した。慶長8年(1603年)に落成、但し天守は慶長11年(1606年)に完成した。しかし天守は寛延3年(1750年)に落雷により焼失し現存していない。
明治17年(1884年)に宮内省の所管となり「二条離宮」となるが、昭和14年(1939年)に京都市に下賜され翌年から「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。現在の正式名称である。
城内全体が国の史跡であり、二の丸御殿(6棟)は国宝、重要文化財は多数あり、平成6年(1994年)には世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録されている。
二の丸御殿の「遠侍」及び「車寄」、国宝である。
右手前にあるのが「車寄」。
二の丸御殿の「唐門」、重要文化財。
訪問時は梅雨のこぬか雨、傘をさしながらの撮影。
数十年前の修学旅行以来の訪問、下の写真はその時撮影した「遠侍」及び「車寄。
1971年5月上旬撮影、35㎜フィルムからスキャン
元離宮二条城付近地図
(2010年7月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
島原城(長崎県) [日本の城]
島原城
長崎県島原市、有明海に臨み、雲仙岳の麓にある。島原は戦国時代、キリシタン大名の有馬氏が治めていたが、元和2年(1616年)に4万石で松倉氏が藩主となる。初期は日野江藩と呼ばれ藩庁も日野江城(長崎県南島原市)にあったが、寛永元年(1624年)に島原城を築城し藩庁とした。
明治となり廃城令によって天守以下建造物は破却されるが、昭和39年(1964年)に天守を復興し歴史資料館としている。平成に入り日本100名城の選定を受け、城跡は長崎県指定史跡に指定された。
天守は五層、現在はキリシタン資料館。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
「島原の乱」関係の資料が展示されている。
島原の乱は江戸時代初期に起こった日本史上最大規模の一揆である。寛永14年(1637年)10月に勃発し寛永15年(1638年)2月に終結とされる。島原藩と唐津藩の領民が、過酷な年貢取立て、キリシタン弾圧に対し、天草四郎を総大将として一揆を起こした。一揆軍は島原旧主有馬氏の廃城である原城に籠城、幕府ならびに九州諸藩の討伐軍と戦った。人数は37,000人程と言われるが諸説ある模様。一揆軍は皆殺しとなったが、島原藩主の松倉勝家も一揆を招いた責任を問われ斬首となった。大名で斬首とは、幕府の怒りがわかる。
島原城付近地図
(2009年10月上旬 撮影機材 Nikon D80)
長崎県島原市、有明海に臨み、雲仙岳の麓にある。島原は戦国時代、キリシタン大名の有馬氏が治めていたが、元和2年(1616年)に4万石で松倉氏が藩主となる。初期は日野江藩と呼ばれ藩庁も日野江城(長崎県南島原市)にあったが、寛永元年(1624年)に島原城を築城し藩庁とした。
明治となり廃城令によって天守以下建造物は破却されるが、昭和39年(1964年)に天守を復興し歴史資料館としている。平成に入り日本100名城の選定を受け、城跡は長崎県指定史跡に指定された。
天守は五層、現在はキリシタン資料館。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
「島原の乱」関係の資料が展示されている。
島原の乱は江戸時代初期に起こった日本史上最大規模の一揆である。寛永14年(1637年)10月に勃発し寛永15年(1638年)2月に終結とされる。島原藩と唐津藩の領民が、過酷な年貢取立て、キリシタン弾圧に対し、天草四郎を総大将として一揆を起こした。一揆軍は島原旧主有馬氏の廃城である原城に籠城、幕府ならびに九州諸藩の討伐軍と戦った。人数は37,000人程と言われるが諸説ある模様。一揆軍は皆殺しとなったが、島原藩主の松倉勝家も一揆を招いた責任を問われ斬首となった。大名で斬首とは、幕府の怒りがわかる。
島原城付近地図
(2009年10月上旬 撮影機材 Nikon D80)
熊本城(熊本県)震災前 [日本の城]
熊本城 震災前
戦国時代末期、加藤清正により天正19年(1591年)から築城が始まり、江戸時代、慶長12年(1607年)に完成した。それまでは「隈本城」と呼ばれていたのだが「熊本城」に改められた。天守は連結式望楼型三重6階であるが、西南戦争中の明治10年(1877年)に原因不明の出火により焼失した。再建されたのは昭和35年(1960年)で、RC構造の熊本市立熊本博物館分館として外観復元がなされ、平成にかけて城郭内の建造物等も復元された。
平成28年(2016年)4月、熊本地震により被災、天守の屋根瓦や鯱も落下、石垣や塀も倒壊する等、大きな被害を受けている。
写真は平成26年(2014年)9月の震災前に撮影した熊本城である。
連結式望楼型三重6階の天守。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
開館直後なので人もまばらだが、すでに熊本城の武将隊が出陣している。
熊本城本丸御殿内にある「昭君之間」。
「昭君之間」、実は「将軍之間」の隠語で、加藤清正が豊臣秀吉の遺児である秀頼を熊本城に迎え入れるために用意したという説があるらしい。金ピカ。
西南戦争での焼失を逃れた宇土櫓、築城時からの現存櫓、三重5階の櫓は熊本城では天守を除いて最大の櫓。清正の創建した初代天守との見方もあるらしい。重要文化財。
熊本城石垣、上に行くほど反りがきつい、通称「武者返し」。
西南戦争において薩摩軍は誰一人として城内に侵入することができなかったという。加藤清正が築いた城は最初で最後の攻防戦でその防衛力の高さを発揮した事となる。
(2014年9月下旬 撮影機材 Nikon D5100)
熊本城付近地図
震災後の熊本城天守、平成28年(2016年)に撮影、瓦が落ち、鯱も無いのが見て取れる。
(2016年6月下旬 撮影機材 Nikon1 J5)
復旧なったら、また行きますかね。
関連ブログ:復旧後の熊本城
戦国時代末期、加藤清正により天正19年(1591年)から築城が始まり、江戸時代、慶長12年(1607年)に完成した。それまでは「隈本城」と呼ばれていたのだが「熊本城」に改められた。天守は連結式望楼型三重6階であるが、西南戦争中の明治10年(1877年)に原因不明の出火により焼失した。再建されたのは昭和35年(1960年)で、RC構造の熊本市立熊本博物館分館として外観復元がなされ、平成にかけて城郭内の建造物等も復元された。
平成28年(2016年)4月、熊本地震により被災、天守の屋根瓦や鯱も落下、石垣や塀も倒壊する等、大きな被害を受けている。
写真は平成26年(2014年)9月の震災前に撮影した熊本城である。
連結式望楼型三重6階の天守。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
開館直後なので人もまばらだが、すでに熊本城の武将隊が出陣している。
熊本城本丸御殿内にある「昭君之間」。
「昭君之間」、実は「将軍之間」の隠語で、加藤清正が豊臣秀吉の遺児である秀頼を熊本城に迎え入れるために用意したという説があるらしい。金ピカ。
西南戦争での焼失を逃れた宇土櫓、築城時からの現存櫓、三重5階の櫓は熊本城では天守を除いて最大の櫓。清正の創建した初代天守との見方もあるらしい。重要文化財。
熊本城石垣、上に行くほど反りがきつい、通称「武者返し」。
西南戦争において薩摩軍は誰一人として城内に侵入することができなかったという。加藤清正が築いた城は最初で最後の攻防戦でその防衛力の高さを発揮した事となる。
(2014年9月下旬 撮影機材 Nikon D5100)
熊本城付近地図
震災後の熊本城天守、平成28年(2016年)に撮影、瓦が落ち、鯱も無いのが見て取れる。
(2016年6月下旬 撮影機材 Nikon1 J5)
復旧なったら、また行きますかね。
関連ブログ:復旧後の熊本城
首里城(沖縄県) [日本の城]
首里城(スイグスク)
琉球王朝の王城、沖縄県内最大規模の城であるが創建時期は明らかではない。琉球の統一に伴い王家の居城として用いるようになったと考えられる。王宮である首里城(スイグスク)は門や建築物が漆で朱塗りされており、瓦は琉球瓦、城郭は琉球石灰岩で積み上げられている。築城の地は那覇港を見下ろす丘陵地である。「グスク」とは城のことらしい。
明治12年(1879年)沖縄県設置に至る琉球処分以後は日本陸軍第6師団の軍営として、また学校としても使用されたりした。王宮でなくなった首里城は荒廃が進んだが、保存の検討がなされ、「正殿」は大正14年(1925年)に国宝に指定され改修工事が行われた。しかし、昭和20年(1945年)5月の沖縄戦において首里城の地下に日本軍司令部があった事もあり、米軍の砲撃により多くの文化財も含め焼失した。
戦後は琉球大学が置かれ、昭和33年(1958年)には「守礼門」が再建、昭和47年(1972年)日本復帰後に国の史跡に指定され、琉球大学の移転もあり「正殿」を中心とする建築物群や門の再建が進められた。平成12年(2000年)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として首里城跡は世界遺産に登録された。
令和元年(2019年)10月31日未明、首里城火災のニュースが入ってきた。旅行記の用意をしていた矢先であり、首里城は先の大戦を含め数度焼失しているが、復元工事が完了(2019年1月)したばかりで誠に残念である。
筆者の首里城訪問は2011年2月上旬、まだ「正殿」も改修中であった。
天気はあいにくの雨・・ (Adobe Stock my portfolioに掲載)
「正殿」内部、玉座も復元直後でピカピカだった。
南殿南側の「書院」及び「鎖之間庭園」。琉球王が日常的に執務する場所であったらしい。
名園と評価され、国の名勝らしい、う〜む・・。
書院かな?でいただいたお茶とお菓子、沖縄って感じかな。
有名な「守礼門」、昔々ここで記念写真を撮った記憶がある。
1982年に訪問した時はこんなに綺麗ではなかったような、雨のせいかな、歳のせいかな。
首里城の城郭一望。
城壁にとんがりがある理由を沖縄の人から聞いたが忘れてしまった・・。
首里城の門のひとつ「瑞泉門」。
この門の名をとったお酒が「瑞泉(泡盛)」、ぜひ一献。
お土産に買ったシーサー、阿吽の対。
幾度となく焼失を経験している首里城はまた再建されるでしょう、次の再建まで生きているかな・・。
首里城付近地図
(2011年2月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
琉球王朝の王城、沖縄県内最大規模の城であるが創建時期は明らかではない。琉球の統一に伴い王家の居城として用いるようになったと考えられる。王宮である首里城(スイグスク)は門や建築物が漆で朱塗りされており、瓦は琉球瓦、城郭は琉球石灰岩で積み上げられている。築城の地は那覇港を見下ろす丘陵地である。「グスク」とは城のことらしい。
明治12年(1879年)沖縄県設置に至る琉球処分以後は日本陸軍第6師団の軍営として、また学校としても使用されたりした。王宮でなくなった首里城は荒廃が進んだが、保存の検討がなされ、「正殿」は大正14年(1925年)に国宝に指定され改修工事が行われた。しかし、昭和20年(1945年)5月の沖縄戦において首里城の地下に日本軍司令部があった事もあり、米軍の砲撃により多くの文化財も含め焼失した。
戦後は琉球大学が置かれ、昭和33年(1958年)には「守礼門」が再建、昭和47年(1972年)日本復帰後に国の史跡に指定され、琉球大学の移転もあり「正殿」を中心とする建築物群や門の再建が進められた。平成12年(2000年)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として首里城跡は世界遺産に登録された。
令和元年(2019年)10月31日未明、首里城火災のニュースが入ってきた。旅行記の用意をしていた矢先であり、首里城は先の大戦を含め数度焼失しているが、復元工事が完了(2019年1月)したばかりで誠に残念である。
筆者の首里城訪問は2011年2月上旬、まだ「正殿」も改修中であった。
(c)ike-yanma - 画像素材 PIXTA -
天気はあいにくの雨・・ (Adobe Stock my portfolioに掲載)
「正殿」内部、玉座も復元直後でピカピカだった。
南殿南側の「書院」及び「鎖之間庭園」。琉球王が日常的に執務する場所であったらしい。
名園と評価され、国の名勝らしい、う〜む・・。
書院かな?でいただいたお茶とお菓子、沖縄って感じかな。
有名な「守礼門」、昔々ここで記念写真を撮った記憶がある。
1982年に訪問した時はこんなに綺麗ではなかったような、雨のせいかな、歳のせいかな。
首里城の城郭一望。
城壁にとんがりがある理由を沖縄の人から聞いたが忘れてしまった・・。
首里城の門のひとつ「瑞泉門」。
この門の名をとったお酒が「瑞泉(泡盛)」、ぜひ一献。
お土産に買ったシーサー、阿吽の対。
幾度となく焼失を経験している首里城はまた再建されるでしょう、次の再建まで生きているかな・・。
首里城付近地図
(2011年2月上旬 撮影機材 Nikon D5000)
彦根城(滋賀県)冬 [日本の城]
彦根城 冬
滋賀県彦根市の彦根城、関ヶ原の合戦後、徳川家康公の命による佐和山城(石田三成居城)一掃にあたり、この地を拝領した井伊氏によって佐和山ではなく彦根山に築城が決定され慶長9年(1604年)より着工。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、城郭改造など行い完成は元和8年(1622年)。
天守は三層三階地下一階の望楼型で国宝指定されている。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
井伊氏は徳川幕府の譜代大名の中では最高の30万石、別に幕府領5万石の預かりがあり35万石。戦国時代から全身赤色の鎧で「井伊の赤備え」と言われる精鋭部隊を率いており、武勇の家柄である。幕末に「桜田門外の変」にて暗殺された大老井伊掃部頭直弼は彦根藩15代藩主である。
現存する国宝天守五城の一つ。
城の北東にある大名庭園「玄宮園」から天守を望む。
彦根城といえば「ひこにゃん」。
登場スケジュールと都合が合わず、会えなかったのでお土産に購入。
彦根城付近地図
(2011年2月下旬 撮影機材 Nikon D80)
滋賀県彦根市の彦根城、関ヶ原の合戦後、徳川家康公の命による佐和山城(石田三成居城)一掃にあたり、この地を拝領した井伊氏によって佐和山ではなく彦根山に築城が決定され慶長9年(1604年)より着工。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、城郭改造など行い完成は元和8年(1622年)。
天守は三層三階地下一階の望楼型で国宝指定されている。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
井伊氏は徳川幕府の譜代大名の中では最高の30万石、別に幕府領5万石の預かりがあり35万石。戦国時代から全身赤色の鎧で「井伊の赤備え」と言われる精鋭部隊を率いており、武勇の家柄である。幕末に「桜田門外の変」にて暗殺された大老井伊掃部頭直弼は彦根藩15代藩主である。
現存する国宝天守五城の一つ。
(c)ike-yanma - 画像素材 PIXTA -
城の北東にある大名庭園「玄宮園」から天守を望む。
彦根城といえば「ひこにゃん」。
登場スケジュールと都合が合わず、会えなかったのでお土産に購入。
彦根城付近地図
(2011年2月下旬 撮影機材 Nikon D80)