松江城(島根県)冬 [日本の城]
松江城 冬
山陰地方で唯一の現存天守を持つ松江城、築城されたのは関ヶ原以降で隠岐・出雲24万石藩主堀尾吉晴・忠氏。堀尾氏改易後、京極氏が藩主になるが廃絶、その後松平氏が入封し明治まで続く、別名・千鳥城。
築城年が不詳であったので国宝の指定には至らなかったが、近年松江神社において「慶長拾六年正月吉祥日」(1611年)の祈祷札が確認されたことにより築城年が特定された。これにより、平成27年(2015年)国宝指定となる。
松江城天守。外観4重、内部5階、地下1階の望楼型天守。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
松江城と「人柱伝説」
松江城築城の際、石垣の崩れが続き天守台を築くことができないので、これは人柱が必要ということになった。そこで、人柱の選定のため一計を案じ、城下で盆踊りを実施、踊りが上手で最も美しい娘を連れ去り、何も知らぬ娘を生き埋めにして人柱とした。やがて天守は完成したが、その後城主は急死、藩は改易となり、天守からはすすり泣きが聞こえたというのが松江城「人柱伝説」の一つである。
古きよき日本の姿を記述した小泉八雲著「神々の国の首都」には、「城の完成後、松江の街で娘たちは誰一人踊ってはならないという禁令が出された。若い娘が踊るたびに城山が震えて城が揺らいだから・・」という話が記載されている。
松江城天守、雪の日。
天守からは宍道湖(しんじ湖)が一望できる。
松江城は日本三大湖城の一つに数えられている。
2階建の南櫓と御具足蔵と呼ばれた中櫓、奥に時刻を知らせる太鼓櫓。
この3基の櫓は平成13年(2001年)に復元された。
松江城付近地図
(2009年1月下旬 撮影機材 Nikon D40)
読んだ本(Amazonの該当頁へ):小泉八雲著「神々の国の首都」
山陰地方で唯一の現存天守を持つ松江城、築城されたのは関ヶ原以降で隠岐・出雲24万石藩主堀尾吉晴・忠氏。堀尾氏改易後、京極氏が藩主になるが廃絶、その後松平氏が入封し明治まで続く、別名・千鳥城。
築城年が不詳であったので国宝の指定には至らなかったが、近年松江神社において「慶長拾六年正月吉祥日」(1611年)の祈祷札が確認されたことにより築城年が特定された。これにより、平成27年(2015年)国宝指定となる。
松江城天守。外観4重、内部5階、地下1階の望楼型天守。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
松江城と「人柱伝説」
松江城築城の際、石垣の崩れが続き天守台を築くことができないので、これは人柱が必要ということになった。そこで、人柱の選定のため一計を案じ、城下で盆踊りを実施、踊りが上手で最も美しい娘を連れ去り、何も知らぬ娘を生き埋めにして人柱とした。やがて天守は完成したが、その後城主は急死、藩は改易となり、天守からはすすり泣きが聞こえたというのが松江城「人柱伝説」の一つである。
古きよき日本の姿を記述した小泉八雲著「神々の国の首都」には、「城の完成後、松江の街で娘たちは誰一人踊ってはならないという禁令が出された。若い娘が踊るたびに城山が震えて城が揺らいだから・・」という話が記載されている。
松江城天守、雪の日。
天守からは宍道湖(しんじ湖)が一望できる。
松江城は日本三大湖城の一つに数えられている。
2階建の南櫓と御具足蔵と呼ばれた中櫓、奥に時刻を知らせる太鼓櫓。
この3基の櫓は平成13年(2001年)に復元された。
松江城付近地図
(2009年1月下旬 撮影機材 Nikon D40)
読んだ本(Amazonの該当頁へ):小泉八雲著「神々の国の首都」
福山城(広島県) [日本の城]
福山城 春
広島県福山市にある城、元和8年(1622年)に竣工された、備後福山藩の城。
五重の天守と築城時に伏見城から移築された筋鉄御門、伏見櫓、御湯殿はかつて国宝であったが、昭和20年(1945年)の空襲により筋鉄御門、伏見櫓を残して焼失した。
現在、焼け残った筋鉄御門、伏見櫓は重要文化財となっており、城跡は国の史跡とされ、福山城公園として整備されている。
五重の天守は昭和41年(1966年)に福山城博物館として鉄筋コンクリートで再建。
御湯殿も再建されている。
春は桜の名所として名高いらしい。
重要文化財の伏見櫓、駅のホームからもよく見える。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
400年間の重みか、この伏見櫓には存在感を感じる。
福山城付近地図
(2009年4月上旬 撮影機材 Nikon D40)
広島県福山市にある城、元和8年(1622年)に竣工された、備後福山藩の城。
五重の天守と築城時に伏見城から移築された筋鉄御門、伏見櫓、御湯殿はかつて国宝であったが、昭和20年(1945年)の空襲により筋鉄御門、伏見櫓を残して焼失した。
現在、焼け残った筋鉄御門、伏見櫓は重要文化財となっており、城跡は国の史跡とされ、福山城公園として整備されている。
五重の天守は昭和41年(1966年)に福山城博物館として鉄筋コンクリートで再建。
御湯殿も再建されている。
春は桜の名所として名高いらしい。
重要文化財の伏見櫓、駅のホームからもよく見える。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
400年間の重みか、この伏見櫓には存在感を感じる。
福山城付近地図
(2009年4月上旬 撮影機材 Nikon D40)
松本城(長野県) [日本の城]
松本城 冬
室町時代の永正元年(1504年)に信濃守護・小笠原氏の一族である島立氏により「深志城」として築城されたのが始まりと云われている。その後、武田氏による統治を経て、天正10年(1582年)織田信長により武田氏は滅亡、小笠原氏が城主となり「松本城」と改名した。その後、天正18年(1590年)には豊臣秀吉により石川数正が入城して、天守と城郭および城下町の整備を行ったとされる、天守は朝鮮出兵のあった文禄年間に工事が進められたとの事。
天守は国宝、現存する国宝天守五城の一つである。また現存する五重の天守としては日本最古となる。
五重六階の天守、雪を被った日本アルプスの山々と。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
内堀に映える、天守、乾小天守、辰巳附櫓。
本丸庭園側から、天守と乾小天守。庭園には茶店があり抹茶を喫しながら。
城の別名を「烏(からす)城」と言うは誤りらしいが、黒い。
天守から見下ろす赤い欄干の埋橋。
天守と月見櫓、そして内堀と日本アルプス。天守からは鳥の群れが羽ばたく。
天守と白鷺。松の木の上に凛とした白鷺。
関ヶ原以後、江戸時代初期には大久保長安事件により石川氏は改易、小笠原氏が再び入城したが、大阪の陣以後は松平氏や水野氏などが城主となり、水野氏のあとは明治まで戸田氏が居城とした。
松本城付近地図
(2009年12月下旬 撮影機材 Nikon D5000)
室町時代の永正元年(1504年)に信濃守護・小笠原氏の一族である島立氏により「深志城」として築城されたのが始まりと云われている。その後、武田氏による統治を経て、天正10年(1582年)織田信長により武田氏は滅亡、小笠原氏が城主となり「松本城」と改名した。その後、天正18年(1590年)には豊臣秀吉により石川数正が入城して、天守と城郭および城下町の整備を行ったとされる、天守は朝鮮出兵のあった文禄年間に工事が進められたとの事。
天守は国宝、現存する国宝天守五城の一つである。また現存する五重の天守としては日本最古となる。
五重六階の天守、雪を被った日本アルプスの山々と。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
内堀に映える、天守、乾小天守、辰巳附櫓。
本丸庭園側から、天守と乾小天守。庭園には茶店があり抹茶を喫しながら。
城の別名を「烏(からす)城」と言うは誤りらしいが、黒い。
天守から見下ろす赤い欄干の埋橋。
天守と月見櫓、そして内堀と日本アルプス。天守からは鳥の群れが羽ばたく。
天守と白鷺。松の木の上に凛とした白鷺。
関ヶ原以後、江戸時代初期には大久保長安事件により石川氏は改易、小笠原氏が再び入城したが、大阪の陣以後は松平氏や水野氏などが城主となり、水野氏のあとは明治まで戸田氏が居城とした。
松本城付近地図
(2009年12月下旬 撮影機材 Nikon D5000)
弘前城(青森県) [日本の城]
弘前城 夏
青森県弘前市にある弘前城、弘前藩津軽氏4万7千石の居城として江戸時代に建てられた。最初の天守は慶長16年(1611年)に五重天守として建てられたが、寛永4年(1627年)に鯱鉾に落雷して出火、火災の熱で真っ赤になった吊鐘が地下の火薬庫に焼け落ち、火薬に引火、大爆発を起こして天守焼失との伝。
弘前城はその後200年近く天守なしであったが、ロシアへの海防問題(海への眺望を確保する必要)等を理由として幕府に櫓の移築という名目で願いを出し、許可を得て三層の櫓を文化8年(1811年)に建てた。往時は幕府への配慮から天守ではなく櫓として扱われていたが、「事実上の天守」として現在に至る。
現存十二天守の一つであり、東北で唯一の現存天守である。重要文化財。
弘前城の正面玄関、三の丸追手門。二層の櫓門にて戦国時代の古い形式。重要文化財。
二の丸東門付近から望む、弘前城天守(往時は御三階櫓)。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
木々は桜なので、開花時期にはいい写真が撮れそうな場所。人でいっぱいかな。
下乗橋からの弘前城天守。よく見る構図。
「たか丸」くんが弘前城のマスコットキャラクターらしい。別名・鷹岡城(高岡城)だもんね。
天守からの眺望、岩木山が美しい。
海は遠すぎますよね、幕府がよく移築(実際は築城)を許可したなと。
本丸跡付近からの天守。
2015年に石垣の老朽化による改修工事が始まり、天守は曳屋が行われ仮天守台に移動されている。改修工事は2023年までの予定。写真は2010年に撮影、移動前の天守である。
弘前城付近地図
(2010年6月上旬 撮影機材 Nikon D80)
青森県弘前市にある弘前城、弘前藩津軽氏4万7千石の居城として江戸時代に建てられた。最初の天守は慶長16年(1611年)に五重天守として建てられたが、寛永4年(1627年)に鯱鉾に落雷して出火、火災の熱で真っ赤になった吊鐘が地下の火薬庫に焼け落ち、火薬に引火、大爆発を起こして天守焼失との伝。
弘前城はその後200年近く天守なしであったが、ロシアへの海防問題(海への眺望を確保する必要)等を理由として幕府に櫓の移築という名目で願いを出し、許可を得て三層の櫓を文化8年(1811年)に建てた。往時は幕府への配慮から天守ではなく櫓として扱われていたが、「事実上の天守」として現在に至る。
現存十二天守の一つであり、東北で唯一の現存天守である。重要文化財。
弘前城の正面玄関、三の丸追手門。二層の櫓門にて戦国時代の古い形式。重要文化財。
二の丸東門付近から望む、弘前城天守(往時は御三階櫓)。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
木々は桜なので、開花時期にはいい写真が撮れそうな場所。人でいっぱいかな。
下乗橋からの弘前城天守。よく見る構図。
(c)ike-yanma - 画像素材 PIXTA -
「たか丸」くんが弘前城のマスコットキャラクターらしい。別名・鷹岡城(高岡城)だもんね。
天守からの眺望、岩木山が美しい。
海は遠すぎますよね、幕府がよく移築(実際は築城)を許可したなと。
本丸跡付近からの天守。
2015年に石垣の老朽化による改修工事が始まり、天守は曳屋が行われ仮天守台に移動されている。改修工事は2023年までの予定。写真は2010年に撮影、移動前の天守である。
弘前城付近地図
(2010年6月上旬 撮影機材 Nikon D80)
彦根城(滋賀県)夏 [日本の城]
彦根城 夏
滋賀県彦根市の彦根城、関ヶ原の合戦後、徳川家康公の命による佐和山城(石田三成居城)一掃にあたり、この地を拝領した井伊氏によって佐和山ではなく彦根山に築城が決定され慶長9年(1604年)より着工。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、城郭改造など行い完成は元和8年(1622年)。
井伊氏は徳川幕府の譜代大名の中では最高の30万石、別に幕府領5万石の預かりがあり35万石。
天守は三層三階地下一階の望楼型で国宝指定されている。現存する国宝天守五城の一つである。
訪れたのは梅雨時、曇り空の彦根城。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
三層三階の天守。国宝。
本丸に入る太鼓門櫓の前に茶店「聴鐘庵」があり、お抹茶でいっぷく。右側に見えるのは時報鐘。
城の北東にある大名庭園「玄宮園」から天守を望む。
雨が降ってきた・・。
彦根城付近地図
(2010年6月中旬 撮影機材 Nikon D80)
滋賀県彦根市の彦根城、関ヶ原の合戦後、徳川家康公の命による佐和山城(石田三成居城)一掃にあたり、この地を拝領した井伊氏によって佐和山ではなく彦根山に築城が決定され慶長9年(1604年)より着工。天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築、城郭改造など行い完成は元和8年(1622年)。
井伊氏は徳川幕府の譜代大名の中では最高の30万石、別に幕府領5万石の預かりがあり35万石。
天守は三層三階地下一階の望楼型で国宝指定されている。現存する国宝天守五城の一つである。
訪れたのは梅雨時、曇り空の彦根城。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
三層三階の天守。国宝。
本丸に入る太鼓門櫓の前に茶店「聴鐘庵」があり、お抹茶でいっぷく。右側に見えるのは時報鐘。
城の北東にある大名庭園「玄宮園」から天守を望む。
雨が降ってきた・・。
彦根城付近地図
(2010年6月中旬 撮影機材 Nikon D80)