SOMPO美術館(東京都)ゴッホ「ひまわり」 [名画と彫刻]
SOMPO美術館 ゴッホ「ひまわり」
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の代表作「ひまわり」。「ひまわり」は全部で7点あると言われるが、現存しているのは6点(一つは戦火により焼失)。ひまわりの本数は3本、5本、12本、15本と絵により異なっている。15本の「ひまわり」は3点あり構図はみな同じで、ロンドン・ナショナル・ギャラリー、アムステルダムのゴッホ美術館、そして日本のSOMPO美術館に展示されている。
SOMPO美術館の「ひまわり」
1888年2月、ゴッホは南フランスのアルルに向けてパリを出発する。彼はそこで画家仲間との共同生活を計画し、指導者として敬愛する画家ポール・ゴーギャンを招待した。「ひまわり」はゴーギャンの到着を待ちながら、その部屋を飾るために描かれたものと云う。このとき描かれたのが1点目の「黄色い背景のひまわり」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)で、これをもとにSOMPO美術館蔵の「ひまわり」は、ゴーギャンと共同生活を送っていた1888年11月下旬から12月上旬頃に描かれたと考えられている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
(1853年3月30日 - 1890年7月29日)
SOMPO美術館は安田火災海上保険(現:損害保険ジャパン)により1976年に「東郷青児美術館」として開館した。安田火災海上保険は東郷青児の作品を数多く広報に採用し、その縁から東郷青児の作品を中心とした美術館の設置となったと云う。
「赤いベルト」1953年、東郷青児
「女体礼賛」1972年、東郷青児
SOMPO美術館のロゴマークは「超現実派の散歩(1929年)」から採用されている。
美術館正面には「ひまわり」を複製した陶板が設置されている。
SOMPO美術館付近地図
(2020年11月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:ロンドン・ナショナル・ギャラリーゴッホ美術館(アムステルダム)
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の代表作「ひまわり」。「ひまわり」は全部で7点あると言われるが、現存しているのは6点(一つは戦火により焼失)。ひまわりの本数は3本、5本、12本、15本と絵により異なっている。15本の「ひまわり」は3点あり構図はみな同じで、ロンドン・ナショナル・ギャラリー、アムステルダムのゴッホ美術館、そして日本のSOMPO美術館に展示されている。
SOMPO美術館の「ひまわり」
1888年2月、ゴッホは南フランスのアルルに向けてパリを出発する。彼はそこで画家仲間との共同生活を計画し、指導者として敬愛する画家ポール・ゴーギャンを招待した。「ひまわり」はゴーギャンの到着を待ちながら、その部屋を飾るために描かれたものと云う。このとき描かれたのが1点目の「黄色い背景のひまわり」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)で、これをもとにSOMPO美術館蔵の「ひまわり」は、ゴーギャンと共同生活を送っていた1888年11月下旬から12月上旬頃に描かれたと考えられている。
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
(1853年3月30日 - 1890年7月29日)
SOMPO美術館は安田火災海上保険(現:損害保険ジャパン)により1976年に「東郷青児美術館」として開館した。安田火災海上保険は東郷青児の作品を数多く広報に採用し、その縁から東郷青児の作品を中心とした美術館の設置となったと云う。
「赤いベルト」1953年、東郷青児
「女体礼賛」1972年、東郷青児
SOMPO美術館のロゴマークは「超現実派の散歩(1929年)」から採用されている。
美術館正面には「ひまわり」を複製した陶板が設置されている。
SOMPO美術館付近地図
(2020年11月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:ロンドン・ナショナル・ギャラリーゴッホ美術館(アムステルダム)
フェルメール(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)キューピットの絵 [名画と彫刻]
Johannes Vermeer(ヨハネス・フェルメール)
(1632年10月31日に洗礼を受け - 1675年12月16日に埋葬された)
2018年5月にロンドンのトラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリー(The National Gallery)を訪れる機会を得た。ここで出会ったフェルメールの作品。
「Lady Standing at a Virginal(ヴァージナルの前に立つ女)」、about 1670-72年。
絵の中の「キューピットの絵」
2022年2月、東京都美術館にて「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」が開催されているが、ここで展示される「窓辺で手紙を読む女」(アルテ・マイスター絵画館蔵)には、絵の中に「キューピットの絵」が描かれている。「ヴァージナルの前に立つ女」に描かれている「キューピットの絵」と同じ絵である。
(東京都美術館「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」ポスター:2022年)
「窓辺で手紙を読む女」は、1979年にX線調査でキューピットの絵が上塗りされ、消されていることが判明、2021年に修復が終わり一般公開となった。修復された絵には弓を持つキューピットの姿が描かれており、話題になっている。
「Lady Seated at a Virginal(ヴァージナルの前に座る女)」、about 1670-72年。
「ヴァージナルの前に立つ女」と対をなす作品、「Virginal(ヴァージナル)」とは小型の撥弦鍵盤楽器のこと。
ロンドン・ナショナル・ギャラリー付近地図
「ナショナル・ギャラリー」の名称はロンドンのみならず、スコットランド(National Gallery of Scotland)やワシントン(National Gallery of Art)の国立美術館においても用いられているが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーは定冠詞がついて「The National Gallery」と表記される。
(2018年5月中旬 撮影機材 Nikon Df )
(1632年10月31日に洗礼を受け - 1675年12月16日に埋葬された)
2018年5月にロンドンのトラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリー(The National Gallery)を訪れる機会を得た。ここで出会ったフェルメールの作品。
「Lady Standing at a Virginal(ヴァージナルの前に立つ女)」、about 1670-72年。
絵の中の「キューピットの絵」
2022年2月、東京都美術館にて「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」が開催されているが、ここで展示される「窓辺で手紙を読む女」(アルテ・マイスター絵画館蔵)には、絵の中に「キューピットの絵」が描かれている。「ヴァージナルの前に立つ女」に描かれている「キューピットの絵」と同じ絵である。
(東京都美術館「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」ポスター:2022年)
「窓辺で手紙を読む女」は、1979年にX線調査でキューピットの絵が上塗りされ、消されていることが判明、2021年に修復が終わり一般公開となった。修復された絵には弓を持つキューピットの姿が描かれており、話題になっている。
「Lady Seated at a Virginal(ヴァージナルの前に座る女)」、about 1670-72年。
「ヴァージナルの前に立つ女」と対をなす作品、「Virginal(ヴァージナル)」とは小型の撥弦鍵盤楽器のこと。
ロンドン・ナショナル・ギャラリー付近地図
「ナショナル・ギャラリー」の名称はロンドンのみならず、スコットランド(National Gallery of Scotland)やワシントン(National Gallery of Art)の国立美術館においても用いられているが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーは定冠詞がついて「The National Gallery」と表記される。
(2018年5月中旬 撮影機材 Nikon Df )
フェルメール(アムステルダム国立美術館)「牛乳を注ぐ女」 [名画と彫刻]
Johannes Vermeer(ヨハネス・フェルメール)
(1632年10月31日に洗礼を受け - 1675年12月16日に埋葬された)
2019年2月にJALPAKツアーでオランダのアムステルダム国立美術館を訪れた。ヨハネス・フェルメールはネーデルラント連邦共和国(オランダ)デルフトの生まれである。その生涯のほとんどを故郷のデルフトで過ごしたと云われる画家である。
生誕の地オランダ、アムステルダム国立美術館のフェルメール作品。
「牛乳を注ぐ女(Het melkmeisje)」、about 1657-58年。
「デルフトの眺望」「真珠の耳飾の少女」と共に、フェルメールの著名な作品の一つと云われる。
オランダ旅行の前年、2018年10月5日から2019年2月3日まで「上野の森美術館」にて「フェルメール展」が開催されていた。目玉の展示品はこの「牛乳を注ぐ女」である。
もちろん観に行った。展示会場の最後にこの作品が仰々しく展示されていた。
「フェルメール展」は東京開催の後、大阪でも開催された(大阪市立美術館)が、大阪では「牛乳を注ぐ女」は展示されておらず、アムステルダム国立美術館に戻った。
オランダを訪れたのは2019年2月、帰ってきたばかりの「牛乳を注ぐ女」に異国で再会。アムステルダム国立美術館ではさりげなく飾られているだけ、撮影も可能なので(日本では当然撮影禁止)カメラ爺いとしてはとても嬉しい。
「青衣の女」、about 1663-64年。
アムステルダム国立美術館が購入した最初のフェルメール作品らしい。
「小路」、about 1657-58年。
フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1つ(もう1点は「デルフトの眺望)。
「小路」はデルフト市内の風景、ここに描かれた場所については諸説あったが、「フェルメールの叔母の家で、個人的な思いが詰まっていた場所である」という研究結果が近年提唱されている。
アムステルダム国立美術館にはフェルメール作品は4点ある。ここに掲載してない「恋文」は、このとき「牛乳を注ぐ女」と入れ替わりに大阪市立美術館で展示されており、残念ながら観ていない・・。
アムステルダム国立美術館付近地図
(2019年2月下旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:「デルフトの眺望」と「真珠の耳飾の少女」
(1632年10月31日に洗礼を受け - 1675年12月16日に埋葬された)
2019年2月にJALPAKツアーでオランダのアムステルダム国立美術館を訪れた。ヨハネス・フェルメールはネーデルラント連邦共和国(オランダ)デルフトの生まれである。その生涯のほとんどを故郷のデルフトで過ごしたと云われる画家である。
生誕の地オランダ、アムステルダム国立美術館のフェルメール作品。
「牛乳を注ぐ女(Het melkmeisje)」、about 1657-58年。
「デルフトの眺望」「真珠の耳飾の少女」と共に、フェルメールの著名な作品の一つと云われる。
オランダ旅行の前年、2018年10月5日から2019年2月3日まで「上野の森美術館」にて「フェルメール展」が開催されていた。目玉の展示品はこの「牛乳を注ぐ女」である。
もちろん観に行った。展示会場の最後にこの作品が仰々しく展示されていた。
「フェルメール展」は東京開催の後、大阪でも開催された(大阪市立美術館)が、大阪では「牛乳を注ぐ女」は展示されておらず、アムステルダム国立美術館に戻った。
オランダを訪れたのは2019年2月、帰ってきたばかりの「牛乳を注ぐ女」に異国で再会。アムステルダム国立美術館ではさりげなく飾られているだけ、撮影も可能なので(日本では当然撮影禁止)カメラ爺いとしてはとても嬉しい。
「青衣の女」、about 1663-64年。
アムステルダム国立美術館が購入した最初のフェルメール作品らしい。
「小路」、about 1657-58年。
フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1つ(もう1点は「デルフトの眺望)。
「小路」はデルフト市内の風景、ここに描かれた場所については諸説あったが、「フェルメールの叔母の家で、個人的な思いが詰まっていた場所である」という研究結果が近年提唱されている。
アムステルダム国立美術館にはフェルメール作品は4点ある。ここに掲載してない「恋文」は、このとき「牛乳を注ぐ女」と入れ替わりに大阪市立美術館で展示されており、残念ながら観ていない・・。
アムステルダム国立美術館付近地図
(2019年2月下旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:「デルフトの眺望」と「真珠の耳飾の少女」
フェルメール(マウリッツハイス美術館)「真珠の耳飾りの少女」 [名画と彫刻]
Johannes Vermeer(ヨハネス・フェルメール)
(1632年10月31日に洗礼を受け - 1675年12月16日に埋葬された)
ヨハネス・フェルメールはネーデルラント連邦共和国(オランダ)デルフトの生まれ、その生涯のほとんどを故郷のデルフトで過ごしたと云われる画家である。
2019年2月のオランダ旅行、ツアー内容には含まれていなかったが、添乗員さんの融通によりデン・ハーグのマウリッツハイス美術館を訪れる機会を得た。
マウリッツハイス美術館のフェルメール作品。
「真珠の耳飾りの少女(Het meisje met de parel)」、about 1665-66年。
フェルメールの最も著名な作品である。(個人的に、行きつけの床屋にも飾られているので・・)
「青いターバンの少女」や「ターバンを巻いた少女」」とも呼ばれるが、この絵から着想を得て書き上げられたアメリカの小説「真珠の耳飾りの少女(Girl with a Pearl Earring)」と、その映画化により「真珠の耳飾りの少女」の名称が一般化したらしい。
「デルフト眺望(Gezicht op Delft)」、about 1660-61年。
「牛乳を注ぐ女」「真珠の耳飾の少女」と共に、フェルメールの著名な作品の一つと云われる。
フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1つ(もう1点は「小路」)であるが、縦横1m近くあり、フェルメールの絵画としては大きな作品である。
「ディアナとニンフたち(Diana en haar Nimfen)」、about 1655-56年。
現存するフェルメールの作品としては最初期と云われる。19世紀半ばまでの来歴は不明で、近年になって真作であると鑑定された。
デン・ハーグのマウリッツハイス美術館は、元はナッサウ・ジーゲン侯(ってよくわからないが・・)であったヨハン・マウリッツの邸宅であった。館内の間取りは邸宅のままのようで、家に飾る様な感じて絵画が展示されていた。
マウリッツハイス美術館付近地図
(2019年2月下旬 撮影機材 Nikon Df )
(1632年10月31日に洗礼を受け - 1675年12月16日に埋葬された)
ヨハネス・フェルメールはネーデルラント連邦共和国(オランダ)デルフトの生まれ、その生涯のほとんどを故郷のデルフトで過ごしたと云われる画家である。
2019年2月のオランダ旅行、ツアー内容には含まれていなかったが、添乗員さんの融通によりデン・ハーグのマウリッツハイス美術館を訪れる機会を得た。
マウリッツハイス美術館のフェルメール作品。
「真珠の耳飾りの少女(Het meisje met de parel)」、about 1665-66年。
フェルメールの最も著名な作品である。(個人的に、行きつけの床屋にも飾られているので・・)
「青いターバンの少女」や「ターバンを巻いた少女」」とも呼ばれるが、この絵から着想を得て書き上げられたアメリカの小説「真珠の耳飾りの少女(Girl with a Pearl Earring)」と、その映画化により「真珠の耳飾りの少女」の名称が一般化したらしい。
「デルフト眺望(Gezicht op Delft)」、about 1660-61年。
「牛乳を注ぐ女」「真珠の耳飾の少女」と共に、フェルメールの著名な作品の一つと云われる。
フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1つ(もう1点は「小路」)であるが、縦横1m近くあり、フェルメールの絵画としては大きな作品である。
「ディアナとニンフたち(Diana en haar Nimfen)」、about 1655-56年。
現存するフェルメールの作品としては最初期と云われる。19世紀半ばまでの来歴は不明で、近年になって真作であると鑑定された。
デン・ハーグのマウリッツハイス美術館は、元はナッサウ・ジーゲン侯(ってよくわからないが・・)であったヨハン・マウリッツの邸宅であった。館内の間取りは邸宅のままのようで、家に飾る様な感じて絵画が展示されていた。
マウリッツハイス美術館付近地図
(2019年2月下旬 撮影機材 Nikon Df )
クロード・モネ(オルセー美術館)その1 [名画と彫刻]
クロード・モネ(Claude Monet)
(1840年11月14日 - 1926年12月5日)
印象派を代表するフランスの画家である「クロード・モネ」、オルセー美術館(Musée d’Orsay)で写真に収めた彼の作品。
オルセー美術館はパリにある19世紀美術専門の美術館、1900年のパリ万国博覧会開催のために建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった建物を再活用したもので、開館は1986年と新しい。
「Waggon on snow-covered street in Honfleur」(1867年)
モネは1840年にパリで生まれたが、少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしている。画家になるべくパリに出たのは1859年で、以降サロン・ド・パリへの挑戦を続ける。本作品はパリ時代の作品で、雪の情景を描いている。同じく雪の情景を描いた「かささぎ」と並んで展示されていた。
「かささぎ(The Magpie)」(1868-1869年)
本作品はサロン・ド・パリでは落選したが、オルセー美術館の所蔵品の中では人気のある絵画の一つ。
「昼食会:アルジャントゥイユのモネの庭」(1873年)
モネは普仏戦争が始まると兵役を逃れロンドンに渡るが、終戦後の1871年にはパリの近郊アルジャントゥイユにアトリエを構えた。1869年と1870年のサロンに続けて落選したモネは、1874年に第一回印象派展を開催するも失敗に終わる。
「サン=ラザール駅(La Gare Saint-Lazare)」(1877年)
1877年にはパリのサン=ラザール駅近くに部屋を借り、駅やその周辺をテーマに一連の作品(12点)を描いた。本作品はその内の一点であり第三回印象派展に出品している。
アルジャントゥイユでの生活は出費が嵩み、1878年にモネは借金に追われてセーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移る。妻カミーユの健康状態も悪化していたが、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデ一家(妻アリスと6人の子供)が破産し、ヴェトゥイユの家で同居生活を送ることとなった。「クロード・モネ(オルセー美術館)その2」に続く・・
オルセー美術館付近地図
オルセー美術館訪問は、JALPAK「東部フランスの田舎とパリを楽しむ8日間」にて。
(2017年9月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:クロード・モネ(オルセー美術館)その2、オルセー美術館 印象派
(1840年11月14日 - 1926年12月5日)
印象派を代表するフランスの画家である「クロード・モネ」、オルセー美術館(Musée d’Orsay)で写真に収めた彼の作品。
オルセー美術館はパリにある19世紀美術専門の美術館、1900年のパリ万国博覧会開催のために建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった建物を再活用したもので、開館は1986年と新しい。
「Waggon on snow-covered street in Honfleur」(1867年)
モネは1840年にパリで生まれたが、少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしている。画家になるべくパリに出たのは1859年で、以降サロン・ド・パリへの挑戦を続ける。本作品はパリ時代の作品で、雪の情景を描いている。同じく雪の情景を描いた「かささぎ」と並んで展示されていた。
「かささぎ(The Magpie)」(1868-1869年)
本作品はサロン・ド・パリでは落選したが、オルセー美術館の所蔵品の中では人気のある絵画の一つ。
「昼食会:アルジャントゥイユのモネの庭」(1873年)
モネは普仏戦争が始まると兵役を逃れロンドンに渡るが、終戦後の1871年にはパリの近郊アルジャントゥイユにアトリエを構えた。1869年と1870年のサロンに続けて落選したモネは、1874年に第一回印象派展を開催するも失敗に終わる。
「サン=ラザール駅(La Gare Saint-Lazare)」(1877年)
1877年にはパリのサン=ラザール駅近くに部屋を借り、駅やその周辺をテーマに一連の作品(12点)を描いた。本作品はその内の一点であり第三回印象派展に出品している。
アルジャントゥイユでの生活は出費が嵩み、1878年にモネは借金に追われてセーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移る。妻カミーユの健康状態も悪化していたが、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデ一家(妻アリスと6人の子供)が破産し、ヴェトゥイユの家で同居生活を送ることとなった。「クロード・モネ(オルセー美術館)その2」に続く・・
オルセー美術館付近地図
オルセー美術館訪問は、JALPAK「東部フランスの田舎とパリを楽しむ8日間」にて。
(2017年9月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:クロード・モネ(オルセー美術館)その2、オルセー美術館 印象派