長崎にて(長崎県)花月の柱 [九州地方の旅]
長崎にて
長崎出張の折、iPhoneで撮った「花月の柱」と「眼鏡橋」と「九一式魚雷」。
「花月の柱」
丸山の料亭「花月」の座敷にある、海援隊の面々が酔って切りつけたという刀傷がある柱。
「花月」は旧遊郭「引田屋」、亭内には坂本龍馬や岩崎弥太郎ゆかりの品々が展示されている。昭和35年(1960年)に長崎県から史跡に指定された、長崎の卓袱料理がいただける料亭。女将のお話が終わらないと料理には手をつけられない、お話は徳川家光の時代から始まるのでちと長い。
「花月」公式サイト:http://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/
「眼鏡橋」
長崎で有明な眼鏡橋、正面から撮らないと眼鏡に見えない・・。
寛永11年(1634年)建造、中島川に架かる日本初の石造りアーチ橋、重要文化財。
眼鏡橋付近地図
「九一式魚雷」
三菱重工長崎造船所史料館に展示されている大日本帝国海軍の九一式魚雷。
空中姿勢安定板を装着した展示が珍しかったので撮影、九一式魚雷は昭和6年(1931年)から配備された航空魚雷である。九七式艦上攻撃機等に搭載されて艦船攻撃に使用された。木製の空中姿勢安定板「框板(きょうばん)」は脱落式で、落下する魚雷の軸線が航空機の雷道線と一致する様に装着された。また、真珠湾の様に浅い港湾で魚雷が海底に突き刺さらない様にするために、側胴に制御板が装備された。
三菱重工長崎造船所資料館付近地図
(2014年3月上旬 撮影機材 Apple iPhone 5s)
長崎出張の折、iPhoneで撮った「花月の柱」と「眼鏡橋」と「九一式魚雷」。
「花月の柱」
丸山の料亭「花月」の座敷にある、海援隊の面々が酔って切りつけたという刀傷がある柱。
「花月」は旧遊郭「引田屋」、亭内には坂本龍馬や岩崎弥太郎ゆかりの品々が展示されている。昭和35年(1960年)に長崎県から史跡に指定された、長崎の卓袱料理がいただける料亭。女将のお話が終わらないと料理には手をつけられない、お話は徳川家光の時代から始まるのでちと長い。
「花月」公式サイト:http://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/
「眼鏡橋」
長崎で有明な眼鏡橋、正面から撮らないと眼鏡に見えない・・。
寛永11年(1634年)建造、中島川に架かる日本初の石造りアーチ橋、重要文化財。
眼鏡橋付近地図
「九一式魚雷」
三菱重工長崎造船所史料館に展示されている大日本帝国海軍の九一式魚雷。
空中姿勢安定板を装着した展示が珍しかったので撮影、九一式魚雷は昭和6年(1931年)から配備された航空魚雷である。九七式艦上攻撃機等に搭載されて艦船攻撃に使用された。木製の空中姿勢安定板「框板(きょうばん)」は脱落式で、落下する魚雷の軸線が航空機の雷道線と一致する様に装着された。また、真珠湾の様に浅い港湾で魚雷が海底に突き刺さらない様にするために、側胴に制御板が装備された。
三菱重工長崎造船所資料館付近地図
(2014年3月上旬 撮影機材 Apple iPhone 5s)
宇佐神宮(大分県)豊前国一宮 [九州地方の旅]
宇佐神宮(宇佐八幡宮)
大分県宇佐市にある宇佐神宮は、宇佐八幡宮とも呼ばれ、全国にある八幡宮の総本宮である。御祭神の八幡大神は応神天皇の御神霊で、欽明天皇32年(571年)に御示顕になったと云われ、神亀2年(725年)に御殿を造立してお祀りしたのが宇佐神宮の創建と云われる。豊前国一宮である。
南中楼門(勅使門) (Adobe Stock my portfolioに掲載)
神代においては、宇佐の地に比売大神(ひめおおかみ)が降臨されており、天平5年(733年)には神託によりニ之御殿が造立され比売大神が祀られた。また、弘仁14年(823年)には応神天皇の御母、神功皇后が神託により祀られ、三之御殿が造立された。
宇佐神宮の主祭神は上記のとおり、一之御殿:八幡大神、二之御殿:比売大神、三之御殿:神功皇后の三柱となる。古くから皇室の崇敬を受けており、上宮本殿にある三つの御殿は国宝である。
この皇室からの崇敬ゆえの大事件が「宇佐八幡宮神託事件」である。
宇佐八幡宮神託事件
奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇に対し「道鏡が皇位に就くべし」との神託が奏上され、紛糾が起こった事件。和気清麻呂が勅使となり真相の確認に宇佐八幡宮を訪れ、「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」との神託を持ち帰る。道鏡と称徳天皇の怒りをかった清麻呂は大隅国に配流されるが、翌年称徳天皇が崩御すると道鏡は下野国に左遷、清麻呂は召し返された。称徳天皇崩御のあとは、皇統が守られ、光仁天皇が即位した。
参道と大鳥居。
宇佐神宮には上宮と下宮がある。まずは上宮に向かう。
上宮へ向かう階段。
上宮門前、天皇陛下「幣帛(へいはく)料御下賜」の札が並んでいる。
上宮内部を門外から。
一之御殿かな。
上宮の南中楼門(勅使門)を正面から、宇佐神宮の参拝作法は「二拝四拍手一拝」。
お日柄もよろしいようで・・。
宇佐神宮付近地図
(2015年4月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)
大分県宇佐市にある宇佐神宮は、宇佐八幡宮とも呼ばれ、全国にある八幡宮の総本宮である。御祭神の八幡大神は応神天皇の御神霊で、欽明天皇32年(571年)に御示顕になったと云われ、神亀2年(725年)に御殿を造立してお祀りしたのが宇佐神宮の創建と云われる。豊前国一宮である。
南中楼門(勅使門) (Adobe Stock my portfolioに掲載)
神代においては、宇佐の地に比売大神(ひめおおかみ)が降臨されており、天平5年(733年)には神託によりニ之御殿が造立され比売大神が祀られた。また、弘仁14年(823年)には応神天皇の御母、神功皇后が神託により祀られ、三之御殿が造立された。
宇佐神宮の主祭神は上記のとおり、一之御殿:八幡大神、二之御殿:比売大神、三之御殿:神功皇后の三柱となる。古くから皇室の崇敬を受けており、上宮本殿にある三つの御殿は国宝である。
この皇室からの崇敬ゆえの大事件が「宇佐八幡宮神託事件」である。
宇佐八幡宮神託事件
奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇に対し「道鏡が皇位に就くべし」との神託が奏上され、紛糾が起こった事件。和気清麻呂が勅使となり真相の確認に宇佐八幡宮を訪れ、「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし。」との神託を持ち帰る。道鏡と称徳天皇の怒りをかった清麻呂は大隅国に配流されるが、翌年称徳天皇が崩御すると道鏡は下野国に左遷、清麻呂は召し返された。称徳天皇崩御のあとは、皇統が守られ、光仁天皇が即位した。
参道と大鳥居。
宇佐神宮には上宮と下宮がある。まずは上宮に向かう。
上宮へ向かう階段。
上宮門前、天皇陛下「幣帛(へいはく)料御下賜」の札が並んでいる。
上宮内部を門外から。
一之御殿かな。
上宮の南中楼門(勅使門)を正面から、宇佐神宮の参拝作法は「二拝四拍手一拝」。
お日柄もよろしいようで・・。
宇佐神宮付近地図
(2015年4月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)
宇佐神宮(大分県)下宮 [九州地方の旅]
宇佐神宮(宇佐八幡宮)
大分県宇佐市にある宇佐神宮は、宇佐八幡宮とも呼ばれ、全国にある八幡宮の総本宮である。御祭神の八幡大神は応神天皇の御神霊で、欽明天皇32年(571年)に御示顕になったと云われ、神亀2年(725年)に御殿を造立してお祀りしたのが宇佐神宮の創建と云われる。豊前国一宮である。
神代においては、宇佐の地に比売大神(ひめおおかみ)が降臨されており、天平5年(733年)には神託によりニ之御殿が造立され比売大神が祀られた。また、弘仁14年(823年)には応神天皇の御母、神功皇后が神託により祀られ、三之御殿が造立された。
宇佐神宮の主祭神は上記のとおり、一之御殿:八幡大神、二之御殿:比売大神、三之御殿:神功皇后の三柱となる。
宇佐神宮には上宮と下宮がある。下宮は御炊宮(みやけみや) と呼ばれ、弘仁年間(810年 - 824年)嵯峨天皇の勅願により創建。上宮からの分祀で、祭神は上宮と同じ三柱である。下宮を参拝する。
宇佐神宮の参拝作法は「二拝四拍手一拝」、出雲大社と同じ・・。
下宮の門。
この門をくぐると、また参道に戻る。
下宮の近くにある「八坂神社」、祭神は須佐之男命。
宇佐神宮の境内には幾多の末社があり、多くの神を祀っている。
宇佐神宮近辺の寄藻川にかかる「呉橋(くれはし)」。
屋根のついた神橋。鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承がある。
参道に隣接する菱形池にある能舞台、桜は既に葉桜。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
参道を抜け仲見世に向かう途中、橋脚が川面に映る神橋を撮影。
宇佐神宮付近地図
(2015年4月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)
大分県宇佐市にある宇佐神宮は、宇佐八幡宮とも呼ばれ、全国にある八幡宮の総本宮である。御祭神の八幡大神は応神天皇の御神霊で、欽明天皇32年(571年)に御示顕になったと云われ、神亀2年(725年)に御殿を造立してお祀りしたのが宇佐神宮の創建と云われる。豊前国一宮である。
神代においては、宇佐の地に比売大神(ひめおおかみ)が降臨されており、天平5年(733年)には神託によりニ之御殿が造立され比売大神が祀られた。また、弘仁14年(823年)には応神天皇の御母、神功皇后が神託により祀られ、三之御殿が造立された。
宇佐神宮の主祭神は上記のとおり、一之御殿:八幡大神、二之御殿:比売大神、三之御殿:神功皇后の三柱となる。
宇佐神宮には上宮と下宮がある。下宮は御炊宮(みやけみや) と呼ばれ、弘仁年間(810年 - 824年)嵯峨天皇の勅願により創建。上宮からの分祀で、祭神は上宮と同じ三柱である。下宮を参拝する。
宇佐神宮の参拝作法は「二拝四拍手一拝」、出雲大社と同じ・・。
下宮の門。
この門をくぐると、また参道に戻る。
下宮の近くにある「八坂神社」、祭神は須佐之男命。
宇佐神宮の境内には幾多の末社があり、多くの神を祀っている。
宇佐神宮近辺の寄藻川にかかる「呉橋(くれはし)」。
屋根のついた神橋。鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承がある。
参道に隣接する菱形池にある能舞台、桜は既に葉桜。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
参道を抜け仲見世に向かう途中、橋脚が川面に映る神橋を撮影。
宇佐神宮付近地図
(2015年4月中旬 撮影機材 Nikon D5100、Apple iPhone 5s)
鹿児島港と桜島(鹿児島県) [九州地方の旅]
鹿児島港と桜島
鹿児島県鹿児島市の鹿児島港、開港より約650年という。鹿児島市内の天文館付近に泊まる機会があり、桜島がよく見える港に行ってみた。
正面に桜島、左側が離島へのフェリー乗り場、桜島の噴煙は少ない・・。
港にある施設「ドルフィンポート」、桜島を正面に臨んで展開している、手前は足湯かな。
飲食店を中心とする複合商業施設だったが、令和2年(2020年)3月に閉鎖されたらしい・・。
桜島夕景、夕陽が山肌を照らす。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
港より天文館通りに戻る途中に撮影、山形屋本店と鹿児島市電。
鹿児島港付近地図
(2016年5月下旬 撮影機材 Nikon1 J5)
今回は噴煙が少なかったが、以前に撮影した噴煙で烟る桜島。(2011年11月中旬 城山から Nikon D5000)
鹿児島県鹿児島市の鹿児島港、開港より約650年という。鹿児島市内の天文館付近に泊まる機会があり、桜島がよく見える港に行ってみた。
正面に桜島、左側が離島へのフェリー乗り場、桜島の噴煙は少ない・・。
港にある施設「ドルフィンポート」、桜島を正面に臨んで展開している、手前は足湯かな。
飲食店を中心とする複合商業施設だったが、令和2年(2020年)3月に閉鎖されたらしい・・。
桜島夕景、夕陽が山肌を照らす。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
港より天文館通りに戻る途中に撮影、山形屋本店と鹿児島市電。
鹿児島港付近地図
(2016年5月下旬 撮影機材 Nikon1 J5)
今回は噴煙が少なかったが、以前に撮影した噴煙で烟る桜島。(2011年11月中旬 城山から Nikon D5000)
仙巌園(鹿児島県)薩摩藩 島津家別邸 [九州地方の旅]
薩摩藩 島津家別邸 仙巌園(せんがんえん)
「名勝 仙巌園」鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園、万治元年(1658年)第19代当主の島津光久によって造園された。別名は「磯庭園」と云う。
借景技法にて、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた庭園である。(Adobe Stock my portfolioに掲載)
幕末には第28代当主の島津斉彬が、この敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業を興した。敷地内には復元された鉄製150ポンド砲が展示されている。
別邸は「磯御殿」と云う。その庭園にある「獅子乗大石灯籠」。
安政4年(1857年)には、園内の石灯籠にガス配管を施し、ガス灯として用いたらしい。
季節は師走の冬真っ盛りであるが、温暖な鹿児島は紅葉の最盛期。
庭園にある池から紅葉越しに「磯御殿」を撮影。
広い園内を散策、瓢箪型の「ひさご池」には小さな滝と石蕗(つわぶき)。
園内にある「江南竹林」は、日本の孟宗竹発祥の地らしい。
第21代当主島津吉貴が中国から琉球を経由して孟宗竹を植えたとのこと。
磯御殿裏山の山腹にある大きな岩、「千尋巌」の文字が白く刻まれている。
「千尋巌(せんじんがん)」とは大きな岩との意味らしいが、どことなく中華風な感じ・・。
裏山から紅葉と桜島。
裏山散策中にある小さな池、緑の藻に落ち葉が彩りを添えていた。
「仙巌園」は明治日本の産業革命遺産として平成27年(2015年)世界文化遺産に登録された。
仙巌園付近地図
(2016年12月中旬 撮影機材 Nikon1 J5)
「名勝 仙巌園」鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園、万治元年(1658年)第19代当主の島津光久によって造園された。別名は「磯庭園」と云う。
借景技法にて、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた庭園である。(Adobe Stock my portfolioに掲載)
幕末には第28代当主の島津斉彬が、この敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業を興した。敷地内には復元された鉄製150ポンド砲が展示されている。
別邸は「磯御殿」と云う。その庭園にある「獅子乗大石灯籠」。
安政4年(1857年)には、園内の石灯籠にガス配管を施し、ガス灯として用いたらしい。
季節は師走の冬真っ盛りであるが、温暖な鹿児島は紅葉の最盛期。
庭園にある池から紅葉越しに「磯御殿」を撮影。
広い園内を散策、瓢箪型の「ひさご池」には小さな滝と石蕗(つわぶき)。
園内にある「江南竹林」は、日本の孟宗竹発祥の地らしい。
第21代当主島津吉貴が中国から琉球を経由して孟宗竹を植えたとのこと。
磯御殿裏山の山腹にある大きな岩、「千尋巌」の文字が白く刻まれている。
「千尋巌(せんじんがん)」とは大きな岩との意味らしいが、どことなく中華風な感じ・・。
裏山から紅葉と桜島。
裏山散策中にある小さな池、緑の藻に落ち葉が彩りを添えていた。
「仙巌園」は明治日本の産業革命遺産として平成27年(2015年)世界文化遺産に登録された。
仙巌園付近地図
(2016年12月中旬 撮影機材 Nikon1 J5)