楠木正成像(東京都)皇居外苑 [小さな旅(東京都)]
楠木正成像
東京都千代田区「皇居外苑」、日比谷公園側の一角にある「楠木正成」の銅像。上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像と共に「東京の三大銅像」の一つとして数えられているらしい。
楠木正成は建武中興の忠臣、後醍醐天皇の倒幕計画に同調し、ゲリラ戦法を駆使して倒幕を成功に導いた人物。楠木一族は源頼朝が京都に入った際の従者「楠木四郎」を祖先とし、武蔵国の御家人で北条氏に仕えたが、河内国の管理をするために河内に移ったとされている。楠木正成は後醍醐天皇より兵衛尉の官名を与えられている。(千代田区観光協会HPより)
手綱を引きながら馬を抑え、頭を下げ拝礼しようとする「楠木正成像」。楠木正成が正慶2年(1333年)に、隠岐の島から戻った後醍醐天皇を、兵庫の道筋で出迎えたときの勇姿を象ったものと云う。
「楠木正成像」は高さ約4m、台座を含めると約8mの高さ、愛媛県の別子銅山200年記念事業として献納された。(1891年に東京美術学校(藝大)が制作依頼を受け、明治33年(1900年)二重橋外に竣工)
別子銅山の銅を使い、頭部を高村光雲、身体・甲冑部を山田鬼斎と石川光明、馬を後藤貞行が担当した。
銅像の周りにはベンチも設置されており、楠の木陰で楠木正成像を鑑賞。
二重橋(正門鉄橋と正門石橋)と伏見櫓。
伏見櫓は京都伏見城からの移築との伝承があるが、関東大震災で倒壊、復元されたもの。
皇居前広場(皇居外苑)の都市風景。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
皇居前広場はかつての江戸城西の丸下。
楠木正成(楠公)「菊水紋」
皇国守護の忠臣である楠木正成公の家紋は「菊水紋」、大戦末期に特攻機の尾翼などに記されている写真をみる。戦艦大和にも最後の出撃時には記されていたいう。鹿児島で現存する大戦機に「菊水紋」をみた、二式大型飛行艇の尾翼上部に記されている。
2017年12月 海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県)にて撮影
楠木正成像付近地図
(2024年2月中旬 撮影機材 Nikon1 J5)
関連ブログ:二式大型飛行艇(鹿屋航空基地)
東京都千代田区「皇居外苑」、日比谷公園側の一角にある「楠木正成」の銅像。上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像と共に「東京の三大銅像」の一つとして数えられているらしい。
楠木正成は建武中興の忠臣、後醍醐天皇の倒幕計画に同調し、ゲリラ戦法を駆使して倒幕を成功に導いた人物。楠木一族は源頼朝が京都に入った際の従者「楠木四郎」を祖先とし、武蔵国の御家人で北条氏に仕えたが、河内国の管理をするために河内に移ったとされている。楠木正成は後醍醐天皇より兵衛尉の官名を与えられている。(千代田区観光協会HPより)
手綱を引きながら馬を抑え、頭を下げ拝礼しようとする「楠木正成像」。楠木正成が正慶2年(1333年)に、隠岐の島から戻った後醍醐天皇を、兵庫の道筋で出迎えたときの勇姿を象ったものと云う。
「楠木正成像」は高さ約4m、台座を含めると約8mの高さ、愛媛県の別子銅山200年記念事業として献納された。(1891年に東京美術学校(藝大)が制作依頼を受け、明治33年(1900年)二重橋外に竣工)
別子銅山の銅を使い、頭部を高村光雲、身体・甲冑部を山田鬼斎と石川光明、馬を後藤貞行が担当した。
銅像の周りにはベンチも設置されており、楠の木陰で楠木正成像を鑑賞。
(c)ikeyama - 画像素材 PIXTA -
二重橋(正門鉄橋と正門石橋)と伏見櫓。
伏見櫓は京都伏見城からの移築との伝承があるが、関東大震災で倒壊、復元されたもの。
皇居前広場(皇居外苑)の都市風景。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
皇居前広場はかつての江戸城西の丸下。
楠木正成(楠公)「菊水紋」
皇国守護の忠臣である楠木正成公の家紋は「菊水紋」、大戦末期に特攻機の尾翼などに記されている写真をみる。戦艦大和にも最後の出撃時には記されていたいう。鹿児島で現存する大戦機に「菊水紋」をみた、二式大型飛行艇の尾翼上部に記されている。
2017年12月 海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿児島県)にて撮影
楠木正成像付近地図
(2024年2月中旬 撮影機材 Nikon1 J5)
関連ブログ:二式大型飛行艇(鹿屋航空基地)
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