鶴岡八幡宮(神奈川県) [小さな旅(神奈川県)]
鶴岡八幡宮
八幡宮は、応神天皇、神功皇后、比売神(ひめがみ)を祭神とする神社であり、大分県の「宇佐神宮」を総本社とする。鎌倉の鶴岡八幡宮は康平6年(1063年)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりとされる。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝が、治承4年(1180年)鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷した。建久2年(1191年)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心となった。
本宮と石段、そして大銀杏。
平成22年3月10日未明、樹齢1000年といわれ、八幡宮の長い歴史を見つめてきた大銀杏が、雪混じりの強風によって倒伏した。現在、石段脇には残った根からでた新芽が育っている、大銀杏の幹は切断され移植、若芽の成長を見守っている。
建保7年(1219年)1月右大臣拝賀式当日、昨夜来の雪で真っ白に化粧した鶴岡八幡宮石段にて、この大銀杏に隠れていた公暁により、鎌倉幕府三代将軍である源実朝が暗殺された。公暁は二代将軍源頼家の子である。源氏の将軍は三代で滅びる・・。
現在の本宮は、文政11年(1828年)、江戸幕府十一代将軍徳川家斉の造営による。
本宮から舞殿を撮影。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
この舞殿の場所には当初、鶴岡八幡宮の下宮である若宮の大回廊があった。
若宮の大回廊は、文治2年(1186年)頼朝の命により、義経の愛妾である静御前が舞を奉納したことで有名である。
静御前は白拍子で、舞の名手、雪深い吉野山に義経と行き別れ、やがて捕われ、鎌倉へ送られてきた。八幡宮の神前に舞の奉納を命じられた静は、頼朝が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して、義経との別れの曲を舞う・・。
吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の あとぞ恋しき
静や静 しずのおだ巻き くり返し 昔を今に なすよしもがな
頼朝は激怒するが、妻の政子が執り成して助命する。この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月に静は男子を産んだ。静は泣き叫んで離さなかったが、取り上げられ、赤子は由比ヶ浜に沈められた。
若宮の大回廊は建久2年(1191年)に焼失し、舞殿は建久4年(1193年)その場所に造営された。
現在の舞殿は昭和8年(1933年)の再建である。
舞殿から本宮。
記事の内容は鶴岡八幡宮のホームページを参考に記述。
鶴岡八幡宮付近地図
(2016年1月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:宇佐神宮
八幡宮は、応神天皇、神功皇后、比売神(ひめがみ)を祭神とする神社であり、大分県の「宇佐神宮」を総本社とする。鎌倉の鶴岡八幡宮は康平6年(1063年)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりとされる。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝が、治承4年(1180年)鎌倉に入り、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷した。建久2年(1191年)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心となった。
本宮と石段、そして大銀杏。
平成22年3月10日未明、樹齢1000年といわれ、八幡宮の長い歴史を見つめてきた大銀杏が、雪混じりの強風によって倒伏した。現在、石段脇には残った根からでた新芽が育っている、大銀杏の幹は切断され移植、若芽の成長を見守っている。
建保7年(1219年)1月右大臣拝賀式当日、昨夜来の雪で真っ白に化粧した鶴岡八幡宮石段にて、この大銀杏に隠れていた公暁により、鎌倉幕府三代将軍である源実朝が暗殺された。公暁は二代将軍源頼家の子である。源氏の将軍は三代で滅びる・・。
現在の本宮は、文政11年(1828年)、江戸幕府十一代将軍徳川家斉の造営による。
本宮から舞殿を撮影。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
この舞殿の場所には当初、鶴岡八幡宮の下宮である若宮の大回廊があった。
若宮の大回廊は、文治2年(1186年)頼朝の命により、義経の愛妾である静御前が舞を奉納したことで有名である。
静御前は白拍子で、舞の名手、雪深い吉野山に義経と行き別れ、やがて捕われ、鎌倉へ送られてきた。八幡宮の神前に舞の奉納を命じられた静は、頼朝が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して、義経との別れの曲を舞う・・。
吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の あとぞ恋しき
静や静 しずのおだ巻き くり返し 昔を今に なすよしもがな
頼朝は激怒するが、妻の政子が執り成して助命する。この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月に静は男子を産んだ。静は泣き叫んで離さなかったが、取り上げられ、赤子は由比ヶ浜に沈められた。
若宮の大回廊は建久2年(1191年)に焼失し、舞殿は建久4年(1193年)その場所に造営された。
現在の舞殿は昭和8年(1933年)の再建である。
舞殿から本宮。
記事の内容は鶴岡八幡宮のホームページを参考に記述。
鶴岡八幡宮付近地図
(2016年1月中旬 撮影機材 Nikon Df )
関連ブログ:宇佐神宮
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