坂東三十三観音三十三番札所(補陀洛山那古寺)「那古観音」結願 [坂東三十三観音巡礼]
坂東三十三観音三十三番札所(補陀洛山那古寺)「那古観音」結願
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。
坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。
坂東三十三観音の三十三番札所は補陀洛山那古寺、千葉県館山市那古にある那古観音、結願の札所である。那古寺縁起によると養老元年(717年)僧行基が老翁の告げにより、海中より香木を得て千手観音像を刻み、元正天皇の病気平癒を祈念したところ、直ちに効験あり、勅願によって山上に伽藍が建てられたと云う。
那古寺は房総半島南端、那古山の中腹にある。この山は自然林におおわれ、縁起には「この山は是れ補陀落山と称すべし・・」とあるらしい。補陀落山(ふだらくさん)とは観音菩薩の降臨する伝説上の山、お浄土である。寺の山号の補陀洛山と文字が異なるが、梵語の音写による違いみたい・・。
源頼朝が那古寺ご本尊に帰依して七堂伽藍を建立、また関東公方足利氏や里見氏からも信仰を受け、江戸時代初期には三百石を領する大寺となった。しかし元禄16年(1703年)の大震災で堂塔は全壊し、宝暦8年(1758年)幕府により現在地に再建された。
宝暦8年(1758年)再建の本堂(観音堂)、本尊は千手観世音菩薩。
観音堂の向拝には老中松平定信の揮毫による「円通閣」の額。文化14年(1817年)筆とのこと。
奥州白河藩主として房総の海岸警備の任にあったことが縁、「円通閣」とは観音堂のことらしい。
観音堂には多くの彫刻がなされている。拝殿より境内を望む、空には月も。
壁面の鬼神。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
観音堂の正面は房総の海。
詠歌に詠まれているとおり、江戸時代には観音堂の足下まで波が打ち寄せていたらしい。
境内にある多宝塔は宝暦11年(1761年)の建立。
多宝塔と月。
多宝塔は住僧が万人講を組織、勧進して建てたと云う。
坂東三十三観音巡礼の結願寺である那古寺、最後の御朱印には「結願」の印も押していただいた。
坂東三十三観音巡礼は平成27年(2015年)1月に鎌倉の一番札所「杉本寺」から始めて、順不同に月一のペースで巡礼した。母を在宅で介護していた時期だが、月一回のショートステイに合わせての巡礼である。結願寺である館山の三十三番札所「那古寺」には12月の巡礼となった。願い事である「娘二人の良縁」もご利益を得、那古寺には久々の家族旅行であった。館山はかつて単身赴任をしたところでもあり、縁を感ずる。
御朱印
詠歌「補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を みるにつけても」
由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。
補陀洛山那古寺近地図
今回は坂東三十一番札所の笠森観音から、三十二番清水観音を巡り、結願の三十三番那古観音と巡礼の旅の終わりである。
(2015年12月中旬 撮影機材 Nikon Df )
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。
坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。
坂東三十三観音の三十三番札所は補陀洛山那古寺、千葉県館山市那古にある那古観音、結願の札所である。那古寺縁起によると養老元年(717年)僧行基が老翁の告げにより、海中より香木を得て千手観音像を刻み、元正天皇の病気平癒を祈念したところ、直ちに効験あり、勅願によって山上に伽藍が建てられたと云う。
那古寺は房総半島南端、那古山の中腹にある。この山は自然林におおわれ、縁起には「この山は是れ補陀落山と称すべし・・」とあるらしい。補陀落山(ふだらくさん)とは観音菩薩の降臨する伝説上の山、お浄土である。寺の山号の補陀洛山と文字が異なるが、梵語の音写による違いみたい・・。
源頼朝が那古寺ご本尊に帰依して七堂伽藍を建立、また関東公方足利氏や里見氏からも信仰を受け、江戸時代初期には三百石を領する大寺となった。しかし元禄16年(1703年)の大震災で堂塔は全壊し、宝暦8年(1758年)幕府により現在地に再建された。
宝暦8年(1758年)再建の本堂(観音堂)、本尊は千手観世音菩薩。
(c)ike-yanma - 画像素材 PIXTA -
観音堂の向拝には老中松平定信の揮毫による「円通閣」の額。文化14年(1817年)筆とのこと。
奥州白河藩主として房総の海岸警備の任にあったことが縁、「円通閣」とは観音堂のことらしい。
観音堂には多くの彫刻がなされている。拝殿より境内を望む、空には月も。
壁面の鬼神。 (Adobe Stock my portfolioに掲載)
観音堂の正面は房総の海。
詠歌に詠まれているとおり、江戸時代には観音堂の足下まで波が打ち寄せていたらしい。
境内にある多宝塔は宝暦11年(1761年)の建立。
多宝塔と月。
多宝塔は住僧が万人講を組織、勧進して建てたと云う。
坂東三十三観音巡礼の結願寺である那古寺、最後の御朱印には「結願」の印も押していただいた。
坂東三十三観音巡礼は平成27年(2015年)1月に鎌倉の一番札所「杉本寺」から始めて、順不同に月一のペースで巡礼した。母を在宅で介護していた時期だが、月一回のショートステイに合わせての巡礼である。結願寺である館山の三十三番札所「那古寺」には12月の巡礼となった。願い事である「娘二人の良縁」もご利益を得、那古寺には久々の家族旅行であった。館山はかつて単身赴任をしたところでもあり、縁を感ずる。
南無観世音菩薩
御朱印
詠歌「補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を みるにつけても」
由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。
補陀洛山那古寺近地図
今回は坂東三十一番札所の笠森観音から、三十二番清水観音を巡り、結願の三十三番那古観音と巡礼の旅の終わりである。
(2015年12月中旬 撮影機材 Nikon Df )
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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