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坂東三十三観音十一番札所(岩殿山安楽寺)「吉見観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音十一番札所(岩殿山安楽寺)「吉見観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の十一番札所は岩殿山安楽寺、埼玉県比企郡吉見町にある吉見観音である。寺の草創は僧行基が、ここを霊地と定め、聖観世音像を彫り岩窟に納めたのが始まりとされる。のちに桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が奥州征伐の戦勝を祈願し、七堂伽藍を建立したと云う。安楽寺の開基は坂上田村麻呂、創立は大同元年(806年)となっている。

平安時代末期、平治の乱(1160年)で助命された源範頼(頼朝の弟)は、この寺の稚子僧として育った。鎌倉時代に領主となった範頼により三重塔、大講堂が建立されたが、天文6年(1537年)からの戦乱により全ての伽藍が焼失した。

本堂・三重塔・仁王門が再建されたのは江戸時代に入ってからである。

参道を進むと、「坂東十一番 岩殿山安楽寺」の石標、石段を上ると仁王門がある。
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本堂(観音堂)。
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本尊は聖観世音菩薩である。

本堂(観音堂)正面にある常香炉の獅子像。
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天文年間の戦乱で堂宇を失い、住僧も離散した安楽寺であるが、江戸時代に入ると下総国の僧杲鏡が復興に精進し、弟子の僧秀慶と共に堂宇の再建がなされていく。

杲鏡法印によって寛永年間に再建された三重塔。
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安楽寺の堂宇の中で最も古い。
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現在の本堂は秀慶法印により寛文元年(1661年)に再建された。  (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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本堂前の阿弥陀如来像「吉見の大仏」。
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寛政2年(1790年)鋳造。

訪問は晩秋の時期、境内の紅葉も美しく。
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御朱印
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詠歌「吉見よと 天の岩戸を 押し開き 大慈大悲の 誓いたのもし」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

岩殿山安楽寺付近地図


今回は坂東十番札所の岩殿観音から、九番慈光寺を巡り、休暇村奥武蔵に一泊、さらに十一番吉見観音、十二番慈恩寺と武蔵国を巡礼した。

(2015年11月下旬 撮影機材 Nikon Df )
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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