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坂東三十三観音二十八番札所(滑河山龍正院)「滑河観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音二十八番札所(滑河山龍正院)「滑河観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の二十八番札所は滑河山龍正院、千葉県成田市にある「滑河観音」である。本尊は十一面観世音菩薩、承和5年(838年)滑河の城主小田宰相将治の発願により、慈覚大師が開基となっている。寺の「縁起」によると、その昔、冷害で大凶作の折に将治が仏天にご加護を願ったところ、「朝日姫」と名乗る少女が現れ「汝の願いはかなうべし」と川辺に姿を消した。あたりを見ると老僧が船を浮かべ、川から一寸二分の観音像を掬い上げ「この淵より湧く乳水をなめよ」と教えた。この乳水により穀物の実りも領民の病も回復したとあり、詠歌はこの由来を謳ったものだと判る。

詠歌「音にきく 滑河寺の 朝日ヶ渕 あみ衣にて すくふなりけり」

滑河山龍正院の「仁王門」から本堂(観音堂)を撮影。      (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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滑河山龍正院は、建保4年(1216年)暴風雨で本堂・鐘楼・護摩堂・三重塔などを失っていると云う。

仁王門は室町時代の再建、重要文化財。
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本堂(観音堂)は元禄9年(1696年)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寄進により再建された。

仁王門から本堂(観音堂)へ。
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本堂(観音堂)の扁額「観世音」。
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本堂(観音堂)より仁王門を望む。
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滑河山龍正院は天台宗の古刹であり、江戸時代には天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺との「下知状」を下しているらしい。綱吉の寄進はこれが故かな。

御朱印
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由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

滑河山龍正院付近地図


(2015年5月中旬 撮影機材 Nikon Df )
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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