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坂東三十三観音二十七番札所(飯沼山円福寺)「飯沼観音」 [坂東三十三観音巡礼]

坂東三十三観音二十七番札所(飯沼山円福寺)「飯沼観音」
観音信仰は仏教の東漸とともに流伝した。真心をもって一心に観音の御名を称えれば、観音菩薩は我らの苦悩を救いたもうとの事である。その慈悲心の働きは、姿を三十三種に変じてとあり、この三十三に合わせて三十三観音札所巡りが始められた。伝承によれば養老年間(717年〜723年)に大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王の勧めによって発願したが振るわず、やがて平安末期に花山法皇が巡礼なされたとして三十三観音(現在の西国三十三観音)は人々に広がりを見せた。この西国三十三観音巡礼の信仰が坂東に及び、札所が定められて行ったのが坂東三十三観音との事。

坂東とは箱根の坂より東の地域を指す、現在の関東である。坂東三十三観音の成立は、源頼朝と実朝が熱心な観音信者であった事から、鎌倉幕府成立の時期に気運が高まり制定されたと考えられる。

坂東三十三観音の二十七番札所は飯沼山円福寺、千葉県銚子市にある「飯沼観音」である。飯沼山観世音縁起によれば、神亀元年(724年)海上に光を放つものがあり、網を投じたところ御丈二尺余の十一面観音像が瑪瑙(めのう)石を脇ばんで出現されたとある。のちに弘法大師が本尊の蓮座を造られ開眼の秘法を修せられたと云う。

鎌倉時代にこの地を治めた海上氏の帰依を受け、寺運は興隆した。江戸時代に入り、天正6年(1578年)には方八間の観音堂が建立され、徳川家康の朱印も賜り諸堂が整備された。しかし、昭和20年(1945年)空襲で諸堂は焼失、観音堂の再建がなったのは昭和46年(1971年)との事である。

飯沼観音(円福寺)本堂、境内。                (Adobe Stock my portfolioに掲載)
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本堂(観音堂)前には「大仏」がおられる。
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「大仏」は銚子在住の人たちの喜捨で正徳4年(1714年)に鋳造。

十一面観世音菩薩が祀られる本堂(観音堂)。
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境内にある五重塔、平成21年(2009年)の竣工。
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「納経」は本坊での受付となる。
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本坊は本堂(観音堂)境内にはない、戦前は地続きであったらしいが、今は大通りを横切って200mほど進む。

御朱印
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詠歌「このほどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな」

由緒、詠歌等は「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)を参考に記載。

円福寺付近地図

地図でも円福寺(圓福寺)が二ヶ所あるので注意、本堂と本坊が離れている。

(2015年5月中旬 撮影機材 Nikon Df、Apple iPhone 5s)
参考文献(Amazonの該当頁へ):「坂東三十三所観音巡礼」(坂東札所霊場会編)
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