雲仙岳災害記念館(長崎県) [九州地方の旅]
雲仙岳災害記念館 秋
長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳、千々石(ちぢわ)カルデラの外輪に位置する。雲仙岳というのは普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)や眉山、猿葉山等の山並みを表す総称である。最高峰は普賢岳であったが、平成2年(1990年)からの噴火で平成新山(1,483m)が最高峰となった。
雲仙岳の火山活動は約50万年前に始まったとされるが、寛政4年(1792年)の噴火は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれ、眉山の山体崩壊と津波で、肥前と肥後国合わせて死者・行方不明者約1万5千人という有史以来日本最大の火山被害となった。平成の噴火はそれ以降198年ぶりの噴火となる。
平成における噴火は平成元年(1989年)から群発地震に始まり、平成2年(1990年)11月普賢岳が噴火した。一時小康状態になったが、平成3年(1991年)2月に新たな火口から再噴火し、土石流・火砕流が多く発生した。特に平成3年6月3日に発生した大規模な火砕流は、報道関係者、火山学者、消防団員、警察官、住人等に多くの死傷者を出す事となる。噴火活動は休止をはさみつつ平成7年(1995年)まで続いた。
雲仙岳災害記念館は島原にあり、この平成の大噴火を記憶するために作られた。
雲仙岳災害記念館(がまだすドーム)、有明海に向かって建造されている。
平成の大噴火では土石流が38回、大火砕流が7回。死者・行方不明44人、負傷12人の被害が出ている。
記念館ではその時の状況が詳しく説明されている。
展望ラウンジからは、平成新山と寛政4年(1792年)に山体崩壊を起こした眉山を望むことができる。
もう噴煙は出ていません。
記念館の脇には、当時救援出動に使用した陸上自衛隊のヘリ「V-107」と装甲車両が展示されている。
(長崎県は6月3日の大火砕流発生後に自衛隊に救援出動要請)
雲仙岳の方を向いて監視しているような、これも災害の記憶かと。
雲仙岳災害記念館付近地図
(2009年10月上旬 撮影機材 Nikon D80)
長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳、千々石(ちぢわ)カルデラの外輪に位置する。雲仙岳というのは普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)や眉山、猿葉山等の山並みを表す総称である。最高峰は普賢岳であったが、平成2年(1990年)からの噴火で平成新山(1,483m)が最高峰となった。
雲仙岳の火山活動は約50万年前に始まったとされるが、寛政4年(1792年)の噴火は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれ、眉山の山体崩壊と津波で、肥前と肥後国合わせて死者・行方不明者約1万5千人という有史以来日本最大の火山被害となった。平成の噴火はそれ以降198年ぶりの噴火となる。
平成における噴火は平成元年(1989年)から群発地震に始まり、平成2年(1990年)11月普賢岳が噴火した。一時小康状態になったが、平成3年(1991年)2月に新たな火口から再噴火し、土石流・火砕流が多く発生した。特に平成3年6月3日に発生した大規模な火砕流は、報道関係者、火山学者、消防団員、警察官、住人等に多くの死傷者を出す事となる。噴火活動は休止をはさみつつ平成7年(1995年)まで続いた。
雲仙岳災害記念館は島原にあり、この平成の大噴火を記憶するために作られた。
雲仙岳災害記念館(がまだすドーム)、有明海に向かって建造されている。
平成の大噴火では土石流が38回、大火砕流が7回。死者・行方不明44人、負傷12人の被害が出ている。
記念館ではその時の状況が詳しく説明されている。
展望ラウンジからは、平成新山と寛政4年(1792年)に山体崩壊を起こした眉山を望むことができる。
もう噴煙は出ていません。
記念館の脇には、当時救援出動に使用した陸上自衛隊のヘリ「V-107」と装甲車両が展示されている。
(長崎県は6月3日の大火砕流発生後に自衛隊に救援出動要請)
雲仙岳の方を向いて監視しているような、これも災害の記憶かと。
雲仙岳災害記念館付近地図
(2009年10月上旬 撮影機材 Nikon D80)
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